10月18日2018年

一昨日はハイデガーの読書会以外スピノザレヴィナスを読み解くことに時間を割いた。大陸型の思索は、結局、始めた途端に忘れてしまう何か、あるいは、すでに始めているために思考不可能な何かについて問い、肉薄しようとする営みだという印象を受ける。たとえば、ハイデガーによる存在に関する問いは、常識的な論理に則れば全く意味不明である。しかし、思考の単位である論理すらも瓦解した領域を開き、そこに留まり、その立場から考えようとすることで、思考不可能に向かう準備をしているわけである。こうした思考は動いているものを止める。自分自身が動いてしまったら不安になり、止まる。考えたから分かるとか、認識の技術を高め続けるという発想そのものに対して否定的なのである。たしかに、何かを意識しても目の前の状況との関係性を十分捉えたとは言えない。さらに、ハイデガーは、言葉を発したら自動的に他者の思考が理解できるという考え、パッケージ化された経験に染まることに対して否定的である。さらに、常識的に、私たちは自他を想定して生活しているが、ハイデガーは思索においてその区別にすらも準拠していない。

思考は、そもそも言葉や記号の枠内で、思考可能なものについて思案する営みである。ハイデガーの思索は、その開始点から、言葉や記号の枠に疑問を投げかけ、思考不可能なものに肉薄しようとする。記号の組み合わせによって整合的に思考可能となったとき、それは「答え」になるわけだが、その瞬間にハイデガーの追求する思考は止まることになる。ある意味、彼の試みは、存在の忘却を問題視しながら、この経験やあの経験によってそれを解消できると特定した瞬間、まさに問題のある状態に陥るわけである。この種の思索をする者は、思索と読書を阻害するあらゆる条件を消していく。逆に言えば、思索と読書のために生活のすべて(食事・睡眠・運動等)を調整すると言えるのかもしれない。 

10月16日2018年

事実の回復に向けて。朝6時に目が覚め、7時まで二度寝する。スタバに向かい、9時までスピノザを読解する。スタバを出たあと、図書館に向かい、10時のティーチングセミナーのリーディングを印刷する。それに一通り目を通していたらゼミの時間となる。ゼミ室では、ダニエラの近くに座るまいと左端に陣取ったのだが、彼女が何故か普段と異なる左端に来たことで、結局、彼女の隣でゼミを受けることになった。正面にはクリス、正面右にエイブラム、右にはヴァレリーがいる。右にはジョン、シャオ、タリと続く。エヴァンは欠席である。ゼミはティーチングでのグレーディング作業に関する話題であった。ある研究によれば、時流によってアメリカの大学におけるグレーディングの厳しさが変遷しており、近年は、学生の満足度に応えるために成績の付け方があまくなっているそうである。2週間に1度50部の哲学エッセイを採点する私としては、どのような点について学べるだろうかとゼミ中に思案し、文章執筆の水準を保つためにきちんとした採点をすべきだと納得した。ゼミが終わるとシャオと図書館地下のカフェでコーヒーを買い、EMUで飲むことになったが、EMUがあまりに混んでいたため、結局そこでサブウェイのベジーディライトを食べた。哲学科に戻ると同僚が4−5人いて騒がしく、読書に集中できなかった。

13時からはジョンソンの大講義があった。今日はウィリアム・ジェイムズの「信じる意志」の講義だった。講義そのものよりも、シャオが、哲学科にカントを教える人がいないのは知的な堕落だとなぜか息巻いていたことが印象に残っている。50分の講義を終えると、キャンパスの反対側の建物でスピノザのゼミが2時間ある。ここ最近、私のスピノザの読解がゼミの進度に追いついていないという気持ちがしている。ゼミの最中に質問が飛んでも、質問の意味がよく分からないのである。スピノザを真剣に読む機会などおそらく人生で今後ないという気持ちがあるため、この事実に若干の焦りを感じる。3時50分にゼミが終わると、ジョンとシャオとスピノザについての雑談をしばらくしたあと、5時半過ぎからFallen Skyでビールをのみ、ピザを食べた。7時からジョンソンの講義のための映画を鑑賞するための時間つぶしである。ヴァレリー、シャオ、ジョン、クリスを含めた5人で雑談をした後に映画を見た。

Fallen Skyで雑談している最中、私が最近感じている気持ちの変化が表面化する一瞬があった。二枚目のピザを注文し、それが出来上がるのを待っていたところ、店員が私ではなく、シャオの名前を呼んだのである。つい数週間前も、クレア・ピッカードがシャオをシュンジと呼んだことで私は首を傾げた。10月13日にスタバで酔っ払って潰れている男を見て、男として社会化されるというのは本当に嫌なことだ、下劣だ、と思った感覚と似ている。男は、醜態や恥をさらすことが許されるが、女は許されない。酔っ払った男に声をかけていたのは女だ。私はdecencyのようなものを信じる。人に示す態度も一種のアートだとすれば、動物のような態度を示すことが許される男の文化に嫌気がさし、女の文化の高貴さのようなものを感じるとともに、その大変さを想像することとなった。最近、日常生活での細かな疑問が社会問題と自分の中でつながることがある。無論、些細な出来事に過ぎないのだが、どうしても注目してしまう。私はこれを「気のせいだ」とか「気にしすぎだ」と無視してはならないと最近考える。