12月6日2018年

ポップ音楽産業もジャズもない音楽の世界ーー。マンガもイラストもない絵の世界ーー。新書も文庫もない言葉の世界ーー。高度な技巧の持ち主でも人生のすべてをかけて神性のかすかな予感を得るにとどまっていた。

その至高が人のために分かりやすく作られるようになり、新たな人が参加し実験するようになり、至高が一つのジャンルや解釈に堕する。数十年間聴き継ぐ音楽、伝える技巧、読み継ぐ言葉が、その場その場で手に入っては捨てられるようになり、新たな参加者は長年かけて培う技巧をめんどくさいと感じるようになり、まったく研鑽されない自らの「個性」で事足りると感じるようになる。センチメンタリズムはムードと勘違いされるようになり、思いつきは洞察と勘違いされるようになる。人の技巧が作る高く険しい営みが、いかに人の気を引くか、という注意散漫の競争になる。

12月3日2018年

決まり文句や紋切り型の描写や構成。それに挑戦しようにもメタな身内ネタ程度。あるいは登場人物に単にそれを解説させてしまう。物語・絵・音楽の制作などにおいても、いくら技巧が優れていても、「思考」のない作品は溢れている。芸術に限られたことではない。「思考」のない人間もいる。「思考」とは言っても、結局、紋切り型に収まっていない、という否定的な指示しかできないのだが、少なくともそれは、言語による文章の構築のことでなければ、認知のことでもない。しかし、「思考」のある結実物は鑑賞をすれば分かることは多い。そして、私たちはそれを人や作品において追求する。それを「思考」と呼ぶのはふさわしくないのかもしれないが。それを忘れないために、そして思い出して再び生み出すために、言語の結晶で演奏する、そういう種の言語を何と呼ぶのか。

12月1日2018年

気にするな。考え続けろ。

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読書における難解な言葉はブラックボックスである。その言葉を音読することはできるが解体したり流動させたりすることはできない。注意して文章を読んでみるといい。解体したり流動させたりできない言葉や記述は溢れている。

 

 

11月27日2018年

「洞察」は形而上学的である。以前は思索とは洞察を追求するための準備作業だと考えていた。現在でも「洞察的なもの」を感じることはある。しかし、「洞察的なもの」は単に自身によるこれまでの思索の習慣が変遷する始点を発見したときに過ぎない。新しい洞察は洞察でないものの対である点で縛られている。思索が始まるというのは、文章がうまくなるとか、未踏の洞察を言い当てるといった準備作業とは異なる。言葉を連ねることによって織りなす運動自体に留まる感性を養わなければならない。

11月22日2018年2

"Convince me. I don't see that."優れた学者からの最高の褒め言葉。

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読むに値する難解な書物の中で変遷する言葉の意味の運動を捉える知性。消費する読書の真逆。

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責任(responsibility)とは常に洞察の泉から考えること。それは反応(response)の機微と機敏さ。

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数年間一人の思索者の文章を読み続けることで思索がその思索者に接近する。思索の道筋とは接近における断絶の発見とそこからの離脱の軌跡である。

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ゼミに出席して10週間に渡って特定の思想の系譜を学ぶだけでそれが分かる。分析哲学アーレント。デューイ。スピノザエマソンーー。思えば、「思索と文化」はエマソンとソローの思索への接近であった。

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ソローの森での4時間の散歩は紛れもなくattunementである。

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一時間しか集中力が持たないような難解な読書や知的な訓練は一時間だけやればいい。問題はその一時間を、毎朝、最も集中力が高い時間に続けられるかどうかである。