2月16日2019年

私は未だ何も考えていない。何をすれば理解したことになるのか。どのような思考の様式を採用すればいいのか。他者に伝達可能な思考を未だに見つけることができない。私自身が、私にとって、参考にするに値するように思われる思考や思索をすることができない。本を開いて文字を静かに目で追っても、学生の前でそれを話す練習をしても、単に踊っているだけである。読書会で意見交換する場があっても、予定調和の意見を口にしたり、そこで出た思考についてのジョークや軽口を言ったりすることに魅力を感じない。まして、目の前の他者に対して意見を表明する気にもなれない。それらはどれも、自己満足、あるいは承認欲求の表出に見えるのである。

私はそもそもどうして書くのだろうか。これまでの思索に共通するのは、私の周囲に、信頼するに値すると思える教師がいない事実に対する不満である。私が育ったのは人文学が死んだ世界である。家庭にも、学校にも、先輩にも、先生にも、目の前の世界に単に準拠せず、言葉を信頼して考え抜いたり、未踏の表現を行ったりする者は皆無であった。何となく周囲に合わせる(それが気に食わない場合は断固として拒否する)ことが賢明で、優れている、というのが通例である。

諦めたり、シニシズムに陥ったりする者は、流れに身を任せることを成熟とする。しかし、順応精神は、優れた精神的境地にたどり着いたということを意味しない。それは、思い通りにならない生活を肯定するための歪曲である。忠誠、寛容、老婆心、大らかさ、協調性、日常の中に喜びを見つける、純朴さ、悟り。この種の歪曲の現代の類型は、ビジネスマンによるマインドフルネスや禅への傾倒である。思い通りにならない物事の苦しみに折り合いをつけるために、目の前の世界を受け入れるための思想をでっち上げる。それが無知の聖域でないとすれば、思考の躍動の陳腐化である。その種の「思想」は、つらい仕事の後に行う「趣味」と何ら変わらない。キリスト教道徳を奴隷根性だと非難したニーチェと感覚は似ている。現状の中でうまく生きるための順応思想は、奴隷根性以外の何物でもない。

私は、宗教的な家庭に育っていたら、信心深い徒になっていたに違いない。しかし、私が育ったのは、あまりに物事の動きがはやく、何を信頼すればいいのか分からない世界である。私と同じ世界に生まれた者で、諦めやシニシズムに陥らないが思索の伝統を持たない場合、折り合いをつけるために、自らの行いを絶対化するエゴイズムに陥る。私は私。私が好きなようにやればいいのだ、という考えである。この考えは、当初、私にも魅力的だったが、思索を進めるうち、自らをまるで神のように扱う全能感に耐えられなくなった。

信頼のたる君主のような教義を欲しながら、それを実際に持つ者の思考の偏狭さに対する嫌悪感を拭い去ることができない。これに対する私の避難所は哲学史の伝統である。なぜ哲学史かと言うと、具体的な思考の躍動において、綿密に吟味された結晶が揃っているからである。これまで、宗教、科学、社会的ラディカリズム、学問などに頼ろうと試みたが、どれもある地点に達すると吟味をやめる。哲学史は、私が見つけた中では、唯一、教義とその吟味方法を考え続ける伝統である。無論、その伝統の思索者自体が党派人に堕するところばかりを見るため、哲学史とは言っても、一枚岩ではないのだろう。いや、この文脈で考えれば、私の応答はすでに一つの党派なのである。

哲学史を学び続けて気づくのは、それが概念による仮定postulationのやり取りの歴史だということである。思索者の営みは、その場限りで切り売りできる種類の思考や教義とは異なる。思索や思考を信頼しない者は、直近で他者の反応が得られる思考のみを持つようにしたり、問わない教義を持ったりすることで探究は終了する。しかし、知に関心を持つ思索者は、両者を問いただすことで、あらゆる教義を自己解体させる。何となくふわりと成り立った思考を解体してしまう躍動における思索者の転回は、生活や読書の中で吸収した思考の躍動の断片を結晶化し、それを仮定として発表することである。ある思索者の仮定が魅力的である場合、問いただす種類の思考を持つ者は、そこに集結し、それを開始点に次なる思索を試みる。

三十年間日経新聞を読む者は、思考が日経の型によって形成される。産業界においては、日経の動向が、目下で行う思考の躍動の無限の背景となるため、日経を読んでいないと教養がないなどと言われる。思索を成熟させる源泉たる土壌は、その語義からして肥沃そのものである。土壌から学んだ思考は、自らを突き動かす素材を貰う。土壌から学ばぬ思考などあり得ないが、思考の躍動は、肥沃ではないため、自らを突き動かす初動として、断片を盗用する。そもそも、始まるというのは、それを結晶化させた無限の背景を忘れることであり、その一面だけから考えることである。土壌というのは、過去の思索者の結晶化の賜物であり、今現在生ける者たちにとっての永遠の宝だが、肥沃な土壌自体が結晶化だという自覚があると、土壌を成り立たせた背景へと関心が向く。無論、土壌すらも成り立たせた、結晶化し得ぬ背景は、思考の躍動を始め直すことで、まさにその躍動に隠されることによってしか明らかにならない。そのため、それを考えるために、まさに土壌において考え続けるしか選択肢がなくなる。

同時に、この関心においては、どの仮定を次に採用するかという問いへの魅力が失われる。土壌が疑問視されない思考においては、土壌の上で思考は豊かに踊る。そして、土壌において栄養を吸収することによってしか思考は成熟しない。しかし、単に、そのまま成熟し続けるというのは、土壌に対して何も疑問を呈することのない思考を再生産するだけである。土壌に疑問を呈さない者は、物事が不明解だとしても、それは、本質的に明解だという前提がある。不明解であるのは、個々人の理解の技巧が足りないからであって、その技巧が育ちさえすれば、不明解は解消されるとされる。しかし、明解さそのものの中の不明解はないのか。明解さによって覆い隠されたものはないのか。不明解の中で明解になるものはないのか。経験を積むごとに自らの思考を絶対化する大人を幾度となく見てきたが、この者たちは、世界は本質的に理解可能であり、そこに居座った年数が長い者は理解が進展しているという考えを共有している。だが、土壌と、土壌がその結晶化である躍動は、その思考の愚かさを暴露する。

土壌とその背景は、思考の躍動に先立つ。しかし、それはいかなる意味においてなのか。それは、時間的な意味ではない。土壌は、個々の思考を成り立たせる栄養そのものであり、その背景は、土壌によって明らかにされる、思考し得ぬ暗闇である。この領野をいかに思考するのか。概念を変えても、その定義を明確化しても、思考の様態は変わらない。それを哲学的だととか、存在論的だというラベルを貼っても、事実を探しても同様である。

追求すべき思考の様態とは何か。それは理性ではない。理性というのは、未だ思考し得ぬ様々な躍動の様式において、その躍動が垂れ流される事実に折り合いを付けるための方法論である。言うまでもなく、教義とその方法を吟味するためには、明晰性や再現可能性は肝要である。言い換えれば、共通感覚において理解不能な混乱について言葉を発して吟味するためには、逆に、誰よりも明晰な言葉の使い手でなければならない。しかし、土壌の背景を忘れると、理性そのものが一種の教義となる。理性が教義と化した者は、明晰性を重視し、あらゆる言葉を真偽の言説として語るようになる。この転回の問題点は、非理性的な教義の持つ圧倒的な肯定を体系的に信じないところであり、問いがなくなることである。分かりやすさや方法に後退することにより、問いを育てる能力が衰退する。こうした探究における「問い」とは、すでに決まった方法の範囲内で整合性をつける算段のことである。信頼のたる開始点の外や内のねじれや矛盾は、方法論的に捨象される。結局、理性とは、ほかの仮定と同様、生活や読書の中で吸収した断片を結晶化した上で思索者が打ち立てた一つの牙城、お寺である。その種の思考の躍動が現実的に生き残る理由は、それが他者との円滑な交流を促進するからだろうが、それが、土壌の背景を忘れる事実は変わりない。

追求すべき思考の様態とは何か。まず、この種の思考の躍動を支えるのは、思考が躍動する事実そのものへの驚嘆である。そもそも、宗教者が教義を持つのは、生や世界を肯定する力を得られるからである。仮に、自然科学が自然に、社会科学が社会に驚嘆し、理解する学問だとしたら、この種の思考は、言葉がこの世界に毎日生まれる事実に驚嘆する。カフェで店員と客が、身振りを交え、口をパクパクと動かしながらコーヒーと現金を交換している。店内で、白い紙切れの束を凝視して難しい顔をしている人がいる。その営みを「言語活動」やら「会話」やらと名前をつけたり、その規則や様式の法則を明らかにしたりしても、変わらないのは、それが今この瞬間に勝手に行われ続ける事実である。そこには「自己」や「社会」などない。なぜなら、概念というのは、その営みの一つの一様態における共鳴の賜物だからである。何かを語ることによって納得するというのは、まさにそれを成り立たせた土壌の一面だけを盗用し、その尺度で土壌を測ることである。

思考の土壌の背景は、思考が躍動し続ける驚嘆が生命力を持つことによってしか感受され得ないが、思考が躍動するというのは、まさに土壌の背景を忘れることである。さらに、あらゆる思考が土壌から育つことを鑑みると、背景は思考不可能である。思考可能な物事の専制に屈することのなく、肯定的(教義的)に問いが躍動し続ける思考とは何か。

何か一つの語りをした途端、その、一の中に差異や言い得なさが含まれているような語りをすることはできないだろうか。言い方を変えれば、概念の区別という意味ではなく、一と、それを可能とする土壌と背景という、真摯に一致し得ない差異の中で一を思考する躍動はできないだろうか。それは、単に「言葉にならない」ということではなくて、「言葉の中で言葉にならない」ことである。何かを言葉にしようとした途端、その言葉の中で言われなかったことを感受し、さらに、そもそも言われなかったことを感受する。何かを言おうとするとき、言葉がうまく見つからないときがある。それを、見つけられた言葉において考えるのではなく、言葉にならなかった言葉の反発として経験する。愛する人に言葉を贈るときに言葉に窮するのは、言われたことが何かの矮小化に思われ、言われなかったことや、言い得なかったことにこそ想いがあると感じるからである。しかし、そもそも、言いたいことは、予め私の言葉の裏に待っているのだろうか。そこに待っているのは、どこかで誰かが陳列した定型句に過ぎない。それをいくら組み合わせたところで、言いたいことは言い得ているのだろうか。また、それを「分からない」という明確な領域に押し込めれば消化できるのだろうか。

にもかかわらず、言葉に窮したとき、言われなかったことによる反発を考えることはできない。その反発は、躍動という名のつかない躍動があるという点を除けば、単位や順序がありえない。できることがあるとすれば、これ以上ないというほどの明確な一言を発したときにも、その反発が同時に生まれることを許容することくらいである。いや、許容せず、思考の全能感が増幅すると、その全能感が強まれば強まるほど、表に顕われることのない虫の知らせのように、何かは分からない、思考不可能な予感がつけまわすのである。その意味で、皮肉にも、反発を許容するきっかけは、思考における圧倒的な全能感を養うところにあるのかもしれない。そして、許容した途端、思考の躍動は自己肯定できなくなり、語れば語るほど、思考の土壌とその背景が同時に、そして差異として顕れ続ける。それでも切れ目にこそ関心を向けるのは、反発が、その土壌と背景に遡る予感となるからである。反発を許容し、それを育てるというのは、上記の驚嘆に対する愛や尊敬を育てることであり、問いを持って思考が躍動する端緒である。

2月12日2019年

追求すべき思考の様態とは何か。いわゆる内面の吐露として思考する私を想定して書く場合、生み出される言葉は、個人の観察やその歴史が主となる。主体は軸となり、客体の統一を発見し、私が対象を見る、という構図ができあがる。しかし、思考は私に所有されるというのは近代特有の一種の思想である。法や慣習によって個人の言動の責任が問われる国民国家においては、主体を想定しない思考は困難である。それでも、状況ではなく、思考の躍動の方に耳を傾けるならば、言葉が個々人不変の本質を明らかにしているという躍動の「裏」の開始点を持ちたくない。無論、具体的に手を動かして思索をしているのは私であり、その躍動が変化する様を経験するのも私である。植物の成長が具体的な有機体の変化であるように、言葉を発する営みも具体的な物理的・生物学的・現象学的変化である。植物を成長させるために注意深く環境を整えるように、思考の躍動の成長のためにも注意深く調律を行う必要がある。その成長の証とは、吟味の暁に、二度と同じように躍動できなくなることである。

思考の具体的な環境はともかく、思考内容については、吟味のなされない常識の次元に留まる必要はない。ひまわりの「花」と「茎」は、常識の次元では、各々、単体として区別できるが、それらはあくまでも一つの植物であるように、人の思考を、意識や言説などの思考の範疇を開始点とする必要性はないのである。コギト的経験が、あくまでもコギト「的」なものであって、コギトではないのは、そのためである。むしろ、そうした開始点を持つというのは、知らないうちに教義を受容することであり、自らが、その結果である開始点を無視するというのは、形而上学的プラックボックスを持つことである。

意識・観念・言説などについての近代特有の思考様態を取らないとすると、開始点になりうるのは、それ以上遡ることのできない思考の範疇たる基体substanceである。しかし、基体から考える思考に落ち着いてしまうというのは、意識や経験などの開始点を抽象的に言い直すだけになる。且つ、基体には生命がない。思考は躍動しているにもかかわらず、その開始点が躍動していないのは問題である。その開始点は、あらゆる種類の思考の枠によっても消化することはできない。それは躍動しており、あらゆる思考は、その躍動を矮小化した賜物であり、躍動そのものでありながら、それを同時に覆い隠す。基体として言い表せない躍動の始原は、隔絶の中で明らかにされるわけである。言い換えれば、見えないからこそ、まさにその見えなさとして、始原は顕われる。

始原から躍動をする試みにおいては、未だ問われていない全ての思考を問いにさらす。「全体」と「個」について各々語り尽くすというのは、その思考対象は異なっても、躍動の様態は変わらない。そうした枠や、躍動の形において、予め思考可能な様態が拒否されたとき、真の意味で答えのない問いが発見される。つまり、事実を探せば解消される問いでもなく、修辞的に解消される問いでもなく、次なる思考の躍動を活気づける問いのことである。当然、そうした躍動の始原には理由などない。その到達点などというものが考え得るとしたら、それは、参加において真の意味で答えのない問いを発見し続けることにより、何物にも寄りかかることのない、底なしの躍動への独自の応答である。この躍動には体系性などあり得ない。思考し得ぬ始原を想起するよう調律し、その都度、始め直すしかない。思考し得ぬ先の始原から考える躍動の試みは、答えに溢れた普段の思考を中座し、まかり通るものに巻き取られない結晶を落とし続ける。

2月9日2019年

"Rousseau is wrong in patiently waitning for humanity to awaken in the child and in so doing contenting himself for the most part with a negative education, only fending off the bad impressions and not attending to good ones"

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 "I would never ask the child whether he had remembered what had been said, for the point is not history itself but its influence on the heart, and as soon as the child began to consider history as a memory exercise or as an intelligence text the intended effect would be lost"

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"I believe that it is the property of exceptional people to be able to give without receiving, to be able to 'warm themselves on ice'"

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"Write and tell me all about what you're working on, your tastes and moods" 

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"But for you it would be something like a duty in that you could perform in Tubingen the role of a waker of the dead" 

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デューイの『確実性の探求』を再再再再……読。著者が70歳前後の成熟した思索者だということもあるが、非常に広く哲学史を知っていることに感心する。しかし、哲学史をきちんと学びつつ再読すると、彼は、決してとんでもないことをしているわけでもないことに気づく。彼は、哲学史のテクスト群を、特定の視座を持って再読しているだけである。その視座とは、最新科学や社会的・歴史的動向である。今現在生きている一人の成熟した思索者という視点から、先人の醸成した教義や分析の是非を再考しているだけである。さらに言えば、著書の膨大さに比べ、その主張内容は、驚くほど大した内容ではない。次の通りである。(1)精神と実在の領域が区別されており、知識は、経験以前の精神の領域でしか捉えることができないという偏見の批判、(2)事象の「裏」に実在なる法則が存在するという偏見の批判、(3)実在の領域は精神よりも低いという偏見の批判。

(1)は、先人のテクスト群を内面化し、その枠を使って実在なるものを評価しているに過ぎない。その種の誤謬の現代版は、哲学を形式の問題だけに限定する職業哲学者の言葉のスポーツである。カントは思考とそれが肉薄できない領域を区別し、自由、神、不死の領域を守ったとされた。その種の誤謬の現代版の範疇で仕事をする者は、カントの範疇で物事を考えているということである。デューイはヘーゲル出身の人であり、いわばその種の二元論を乗り越えようとした人々の思索を背景にしている。次に、(2)の考えを持っている人にたくさん出会う。科学の力を素朴に信じる者は、その産業が生み出す法則や単位を世界の法則と同一視するが、「原子」や「何何の法則」は、科学者共同体が次の実験に向かうための手段ーこの説明方法を使うと説明がうまくいくーであって、自然世界の法則を捉えているいわけではない。最後に(3)、思索、精神、神、純粋さ、完璧さ、崇高さ、等々、二元論におけるいわゆる上位の方に住まうようになると、その外の混乱や不完全さに強い疑問を感じるようになる。言い方を変えれば、強い目的を持つようになると視野が狭くなる。

デューイによるこれらの批判は、現象学が批判の対象としている見方と共鳴する。現象学は、探究領域を限定し、伝統化しているため、各世代においてテクスト群を内面化した原理主義者が生まれる(大学にいると、「私は現象学者だ」と自称する人を見かける)。デューイの批判よりも声を届けやすいと想像する。現象学を継承する人々は、方法論の次元に固執するため、学として領域を持つようになる。皮肉なことに、現象学者(現代は、身体論が流行しているので、フッサールではない種類の現象学が多い)は、形式性・真理の確定・客観性などに対する一種の嫌悪感を持っていることが少なくない。

デューイ的な見方を継承する人々は、その都度、直面する課題に関する言論や、草の根で生まれてきた思索を正典化(canonize)する傾向にある。草の根の個性的な躍動が魅力的であるのは言うまでもないが、それだけでは各業界人に嘲笑される。デューイの批判の根底にあるのは、探究の成果を現実世界の投影だとする反転である。その批判が効力を持つのは、反転を引き起こした人々に対してである。逆に言えば、反転を引き起こさない者にとって、デューイの批判は効力を持たないということである。何が言いたいかというと、デューイ的な見方を持つ者であれば、その人は二元論的な見方へと向かってもいいと思うのである。二元論は、探究の航路の跡で発見される沈殿物である。二元論が生じるのは、目的を持つからである。科学者が事象の「裏」に法則が実在すると思い込むのは、混乱した事象群を理解したいという目的を持っているからであり、その成功体験を信頼しているからである。ギリシアの豊かな知性主義。近代の省察主義、ドイツ観念論の理想への信頼。これらは、追求の方向を持つために結果的に二元論を生み出した。それに対抗する20世紀の思潮は過度に逆方向に流れ続け、思考と思索の躍動を真剣に育てる人間の技に関心を向けなくなった。こうした目的が持つ閉塞感に対する批判としてデューイが顕れたとしたら、デューイの大らかさに閉塞感を感じる者は、勇気を持って一面性の道を歩んだ方がいいと思う。

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"I believe in a future revolution of attitudes and ways of seeing things that will make all we have had till now go red with shame"

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私はいかなる応答をしているのか。「思索と文化」と「日記」において「思索」という原理を開拓することにより、他者に合わせずに言葉を発してもいいのだ、という自らの思索を突き動かすための準備をした。「世の中」や「社会」なる、私たちを成立させるが、私たちの思考や思索の技の条件の話しかされず、人間の技を「偏見」の領域に入れたり、「個人の自由」の領域に閉じ込めてしまう思考様式に疑問を呈したのが「『左翼的なもの』の発見」である。「意志、芸術、思索」は、一種、条件にまつわる「問題」ではなく、人間の技の変化と発展のみを「問題」とするための結晶化であった。「気分と調律」は、私自身が言葉を発するという営みにおいては、思索は、仮に客観性や事実を扱っていても、言葉で気分を開拓する技芸だという点に落ち着いた。また、思索と思考という区別が生まれ、私自身の思索を豊かにするためにも、思索にのみ感情移入するのではなく、書き記すことのない言葉の躍動こそが唯一の権威である、という考えを持った。

これらは未だ私自身の具体的な応答をする条件に過ぎない。一人の人間に宿る技巧は驚くほどに限られている。ヴァイオリニストはフルートを弾けない。クラシック・ヴァイオリニストはジャズを弾けない。同様に、思索と思考が培う躍動の気分は限られている。優れた思索者の文章を読むと、その人が、結局、同じことと格闘していることに気づくように。私は一体どのような躍動を育てるのか。

躍動の中には、真なる命題に到達するための議論の様式へと成熟した人を見る。また、世界への参加が「探究」と同義となっている人の思索様式は非常に力強い。その人が具体的な状況に直面すること自体が、まるでデューイの『論理学』における探究の回転を現実へと投射したかのような躍動。

私が求めるのは、特定の躍動の様式に当てはまることのない、下から自らの様式を開発できる躍動である。その条件だと私が思うのは、思考の躍動についての驚きを育てることである。その好例が『ティマイオス』でのソクラテスである。この対話篇は、理想国家について議論をした次の日の話である。4人は前日の豊かな議論を思い出す対話をしばらくするのだが、ソクラテスは、言論の晩餐("feast of speeches")を誰よりも愉しんでおり、それをもっと眺めたいと言い出す。そこで、4人は、宇宙がどのように始まったかについて話すことになるのである。これは、花が咲く簡単な事実が、突然、奇跡のように思われて驚くことがあるように、思考が魅力的に躍動する事実が、まるで奇跡のように思われて驚くことであり、その驚きを倍増させるために対話に参加することである。

結局、形而上学というのは、思考そのものを一つの宇宙として、その躍動に驚く芸術だと最近感じる。思考が躍動するという事実に畏怖の念を持つと、その躍動に驚き続けるためには、躍動が生きていなければならない。躍動が、身近な事実関係を明らかにするためだけに使われているならば、それは、縮小再生産され続ける。そこで、形而上学的な思考をする者は、その躍動の技芸を使い、思考内容と世界を区別することなく、たとえば、世界の始まりについての憶測を始めるわけである。

思えば、人が話すというのは、何とも不思議な営みである。大学では毎日誰かが話をしている。口を開き、何らかの言葉を発すると、その瞬間、それまで存在しなかった言葉が生み出され、それと同時に消えてなくなる。しかし、青い眼、茶色い眼、黒い目は、瞬きをする力を失ったかのように、演奏元へ、射抜くように求めるまっすぐ、待つ視線を向ける。あなたは一体何を吸収したいのか。何を見ているのか。まるで、その言葉の躍動の裏には何かがあるかのように、静かに首を縦に振ったり、斜めにしかめたりし、手を挙げる。それはどういう意味ですか。最後のところ、もう一度言ってくれますか、と。躍動に意味などあるのだろうか。繰り返すことができるのだろうか。躍動の余韻に対する反応は、その運動にもう一度参加したいと思わず言葉を発するわけである。

この不思議な事実に私は驚嘆し続けたい。科学を振興したり、社会の不正義を弾劾したりするのは、思考の躍動の条件整備として最も大事な営みである。しかし、私自身の思索と思考を成熟させるという観点から言えば、私はそれらに関心があるとは言えない。むしろ、科学の振興によって機械仕掛けの世界しか見られなくなった躍動や、不正義を弾劾することで批判や非難しかできなくなった躍動が、結果的に、思考の躍動を縮小再生産させる様相を見てきた。私の思索と思考は、その縮小再生産に対する応答なのだろう。

思考と思索を最も魅力的に成熟させるための、原石にして奥義は、思考を突き動かす初動である。私はそれを「気まぐれ」「予感」「直観」などと呼んできたわけだが、具体的に考えると分かりやすい。気になる異性に引き寄せられるような力。生理的に受けつけない他者を避ける力。畏怖、尊敬、快楽、静けさ、退屈などである。思考を突き動かす力はテクストに宿る。エマソンの『自然論』には無限に豊かな自然を発見する「透明な眼」と畏怖が描かれている。ハイデガーは『形而上学とは何か』において思索を始めるきっかけの「不安」について書いている。ウィトゲンシュタインの著述には、一見、思索を突き動かす初動がないように思えるが、マルコム『ウィトゲンシュタイン』などと読み、それを書いた当人について想像力が膨らませると、彼の簡素な文体が、真理に対して病理的に厳しく向き合う態度における初動として自覚される。

私はどのような予感に最も突き動かされるか。無限の豊かさへの畏怖に向かう不可逆的な変革への期待である。比喩的に言えば、横に対する応答ではなく、上に対する応答である。横に対する応答は、批判・非難・主張へと結実するが、上に対する応答は、より豊かな躍動の原初に向かって解体され続ける。「人生」とは一つのコミットメントのことだとしたら、現在のところ、私はこの人生が最も魅力的だと感じる。これは、「思索と文化」と「日記」においてこじ開けた思考と思索の躍動の領域について、それを成熟させる条件は急進的でないと満足する方向を見出さない(「『左翼的なもの』の発見」「『思う』ことが一つの倫理となること」)自覚において、自らにとって最も魅力的な躍動をする欲望である。よりこだわって言えば、「何か」に収束することのない言葉においては、常に無限の豊かさから考えようとするという以外に、言葉を使う目的はないようにも思える。それを言ってしまうから矮小化されてしまうのだが。

この人生の核心は真摯さである。思考と躍動がどの位置や地位にあるかを判定することは難しく、大抵、判定というのは後づけの結果論である。言い方を変えれば、各瞬間にこの躍動が育つように人生を過ごしていれば、結果にこだわる必要はないということである。結果を求めることがあるとしたら、それは、自分自身の次の躍動を加速させるための道標、参照元を造るために行われる。他者の成果物を参照するのも、同様の目的に肉薄するためである。

具体的に、思考の躍動を養うエチュードとは何か。端的に言えば、生活をしていて「気づく」時点で思考は躍動している。日記の初心者は何を書けばいいのか分からないと悩む。生活について気づき、それを言葉にするという簡単な営み自体がすでに一つの技芸なのである。しかし、私が求めるのは、目の前の物事の投射や解釈としての思考とは異なる躍動である。若い思考はそもそも論に撤退する傾向にあることを鑑みると、形而上学的な思考を行う気分ーモノや存在者entityの次元以前に後退してしまう思考様式ーは、若い思考の未熟さの表出である。「大人」という言葉は、大抵、具体的な応答に参加できる者に付与される。徹底的に「大人」と逆方向を行く思考が成熟した形而上学的気分であるとすれば、その気分を保ち、醸成するというのは、若者の未熟さの証でありながら、最も困難な成熟である。さらに言えば、ハイデガーの『形而上学とは何か』における「不安」は未だ「大人」の領域に帰ろうとする形而上学的気分である。私たちの思考は、嫌になるほどに状況の中で位置づけられ、その範疇で応答することしかできない。仮にその事実を認めたとしても、思考の躍動がそれに従属しなければならない理由はどこにもない。それをラディカルに追求するというのは、若者の未熟以前ー未熟すらも成り立たせる言葉にならない言葉ーを求めることである。その言葉は、おそらく具体的な他者に伝達可能な言葉ではなくなるに違いない。

この追求は習慣の問題である。普通、思考の躍動というのは、その躍動の外の刺激によって触発される。思考は、その外の「何か」への応答や解釈として躍動を始めるわけである。しかし、「何か」から思考内容を輸入しなければ言葉が生まれないというのは、形而上学の気分を、その気分の中で消滅させようとするものである。

「何か」によって触発されない思考の躍動は、強いて言えば、自らの自らとの参加によって触発される。スピノザの基体(substance)のように、自らが始点であり、自ら以外に原因がないにもかかわらず、自らを知る躍動だと考えることもできる。しかし、この思考の問題点は、その開始点を本当の始点だと考えるところである。自らにとって参考にするに値する思考は、必ず、この次に何も言うことがないという縁(verge)において、それでも言葉を探すときに生まれる。その言葉は、自らの応答における自らの参加において生まれる事実は変わりないのだが、その言葉が唄っているのは、単に「私」だというわけではない。「何」に触発されるわけでもなく、「何」にも着地しない思考の躍動はどこにも向かわない。形而上学的な気分そのものがそれの結果である、その気分とは何か。

ともかく、縁(verge)を経験したとき、それをすぐに消化してはならない。クラシック音楽の演奏会を聴いたあとにコンサート・ホールの外に出ると、何かを言いたいが、雑談を始めてはならないような余韻がある、そこに縁がある。恋愛をしたとき、その他者に手紙を書こうとするとき、言葉が思いつかなくて思い悩む、そこに縁がある。誰かと印象的な時空を共有したとき、それを描写したいと思うのだが、各瞬間の、視線や身体の向き、物事の言い方、言われなかったことなどを想像し、丁度いい具合にそれを書き記すことができない際、そこには縁がある。最低限、縁からしか言葉を発しないという習慣。それを「詩情」と呼ぶ必要はなければ、「形而上学」などと特定の学に当てはめる必要もない。生み出された言葉を「表現」と呼ぶ必要もない。それは単に、自らの言葉が解体した豊かさにおいて言葉を探すという具体的な感覚の研鑽である。

2月7日2019年

"In a moment when the presence of a great man gave me unusual seriousness of purpose I promised to do honour to humanity in my present activity, which in its consequences may have such far-reaching effects"

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"Your translation of the Catiline is of particular interest to me because it is still familiar from last year, when I read it. It is just the thing to be doing at the moment. You are right, translation is like gymnastics, and does the language a lot of good. It becomes nice and supple when it has to adapt to foreign beauty and grandeur, and often to foreign whims too. But though I have a great deal of admiration for your ability to prepare the means to your ends so doggedly, I warn you I'll have a a few words to say if you start a new translation once you have finished the two you are on now. Our language is the organ of our minds, our hearts, the sign of our imaginings, our ideas. it must obey us. If it has lived too long in foreign service there is, I think, the danger that it will never again become quite the free and pure expression of our minds, shaped entirely from within"

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"I well knew I would not be able to remove myself from your proximity without doing my innermost self sensible harm. Now I feel it more keenly every day... It is odd that one can thrive under the influence of a great mind even without its working on one through conversation, merely through its proximity, and that with every intervening mile one feels more deprived"

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魅力的な思考を追想するというのは、思考を一つ一つ経験することである。

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自分自身は何も考えていないという感覚。テクストに直面しても何かを理解したように思えない。ヘルダーリンの手紙の言葉を繰り返す。

Our language is the organ of our minds, our hearts, the sign of our imaginings, our ideas. it must obey us. If it has lived too long in foreign service there is, I think, the danger that it will never again become quite the free and pure expression of our minds, shaped entirely from within

私の言語は私の思考や想いの表現にならなければならない。他者の思索や思考について正確に語ってばかりいると、自らの思考や情念を表現できなくなる。生きた思考を持つというのは、読書をしていなくとも、言葉が発せられ続けることである。観察してみるといい。読書をしているときに私は一体どのような言葉を発しているか。皆無!ああ、嘆かわしい!平たく薄められ、焦点化することのない不毛の地。テクストとともに思うことが何一つない!表現したくても言葉にならない情念を持つと、言葉を探す。言葉を探さない思考と思索を、金輪際、放棄したい。

2月6日2019年

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方法と内容。方法さえ身につければ内容(題材)には関心がない教育論。方法は内容に参加しなければ生まれず、方法は題材に相対的である。たとえば、読書の目的は方法を身につけることだということになると、カマキリの絵本を読むのも、スピノザの『エチカ』を読むのも同じということになる。要約、説明、問い、批判などを投げかけられるようになれば、何を読んでいても同じ。まず、このように読書をしていると、要約、説明、問い、批判などの言葉の使い方に当てはまらない文章を混乱していると思うようになる。現代の責任ある言論人として活躍する分にはこれで結構かもしれないが、それは、アカウンタビリティに飲まれた官僚とも似ている。自らの言葉を誰にでも説明できるのだが、殿様に承認される報告書を書く以外にすることがない。プロセス型思考の難点は、何でも容認するようで、実は何の指針も示さないところである。

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何事においても卓越性は稀有で稀少である。思索者は一種の求道者である。デカルトスピノザが明晰な言語を規準とした思索の求道だとしたら、「思索と文化」から「気分と調律」にかけて形を見せ始めた私の思索は、自らの生ける状況を感知しつつ、魅力的な先人の思索を読み解くことで、思索の様式を変貌させていく種類の求道である。近代哲学がコギトから始める思索だとしたら、この種の思索は、コギト的な経験で終わる。これ以上ないというほどの結晶化をした途端、「コギト的なもの」は解体される。

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街、酒、情欲、名誉、モノ集めーー。承認と社会的地位は思索を阻害する。消費物への依存は思索を阻害する。刺激と反応が近い応答に流されると、自らとの直面が薄まる。当人の具体的な躍動が見えなくなる物事は思索を阻害する。

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多読や散漫な読書は、皮肉にも、注意散漫の条件である。

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客観性は思索の最低限の責任だが、それは同時に思索の密度を薄める。

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他者の平均的な意見を気にすると思索は深まらない。自分の眼で見る。自分の言葉で語る、語り直す。卓越性は例外なく独りで訓練しているときに成熟する。

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ヴァイオリニストが毎朝音階をするように、毎日、思索と思考の気分を観察する。

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"And things are pretty unpoetic in my head at the moment. What I did force onto paper were brief outpourings of my moods, which a few days later I could no longer  bear to look at" Holderlin

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"At this point I can across writings by and about Spinoza, a great and noble man from the last century, and yet strictly speaking an atheist. I found that if one looks at the matter closely, with reason, cold reason untouched by the heart, one is forced to accept his ideas in order to explain everything. But I was still left with the faith of my heart, which is so incontestably full of the longing for eternity, for God."

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"My odd character, my moods, my tendency to be full of projects, & (if I am quite honest about it) my ambitions"

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"That is the blessing and the curse of solitariness, I think -- our minds tend to be wholly taken up with what we are reading or writing. But it really is bad if there's something else we should be attending to and the untimely guests, the thoughts about our reading or writing, take up the place of the thoughts that should be there."

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Holderlin to Hegel in 1794, "Write me as much as you can of what you're doing and thinking at the moment, dear friend! My preoccupations are pretty focused at the moment. Kant and the Greeks are virtually all I read"

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 "And through unremitting efforts to improve and expand our ideas, following the unshakeable maxim that when judging all possible claims and actions, their legitimacy and raison d'etre, absolutely no authority is to be acknowledged other than our own, following the sacred, unshakeable maxim not to let our own conscience be seduced by pseudo-philosophies of any sort, including our own, nor by enlightenment that is clear as mud or the kind of worldly-wise nonsense which defiles so many sacred duties by calling them prejudice, but equally through not letting outselves be led astray by fools or rascals who by talking of free thinking and the zeal for freedom seek to condemn or ridicule a thinking spirit, a being who feels his worth and rights in the person of humanity, -- through all this and much more besides we enter into manhood. We must make great demands of ourselves, Brother of mine! Do we want to be like the poor in spirit who are so at ease in the consciousness of their little worth? Believe me, I get a strange feeling when I think of the hopes attaching to the coming century and set them beside the stunted, small-minded, coarse, presumptuous, ignorant, lethargic young people there are so many of and who one day are supposed to play their part"

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"Reflect coldly! And then act with fire!"

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"I shall need to work my way out of half-light and slumber, use both gentleness and violence to wake and form my half-developed, half-withered faculties"

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何が考えたいのか。どのような思索をするために何を読むのか。

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この本を読んで私の思考の習慣はどのように変わるのか。

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2月3日2019年

思索の目的。思索の教科書を作成することによる優れた思索者の育成。その最も良質な教科書は形而上学の伝統である。

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思索と「理論」の違い。理論には問いがない。理論は、既存の物事に説明方法を与える。理論を読むように思索の教科書を読んでも意味はない。思索の教科書は、具体に直面するための抽象的な訓練。優れた教科書は、個別事象を鮮やかにし、その消化不可能性を暴露する。「要約」や「端的さ」は思索の敵である。「分かった」と思ったとき、それは自分の思い込みをテクストに読み込んでいるに過ぎないと思った方がいい。物事を大まかに捉えるよりも、最も細かいところを繊細に読み解く方が、思索の教科書を読む方法としては優れている。思索の読解は参加であるー切り離せない。思索は、その訓練の具体性ゆえ、参加者に具体的に返ってくる。他方、理論は、具体を抽象化する道具。優れた理論は個別事象を包括・消化する。理論は対象化する。

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思索者と思索の学者の違いは、学者が、あくまでも既存の教科書に立ち戻る理解の職人であるのに対し、思索者は、自らの言葉の世界を開発するところである。準備と躍動という軸で考えれば、いつか活躍すべく準備の領域に留まるのではなく、最初から活躍の領域で動き続けることである。世の中には自分よりも優れた思索など山ほどあるので、準備の領域に留まるならば、大型書店の文庫コーナーに通い続ければ満足の行く人生が過ごせる。そうして偉大な思索の吟味を続けれた暁に到達するのは、西洋文明の文学に精通し尽くした、ハロルド・ブルームのような文芸研究者である。

しかし、ハロルド・ブルームのような学者は(というよりも、あらゆる種類の学者は)準備の領域を整備することで、活躍の領域が開かれることを期待しているはずである。19世紀、ドイツで同じ寮で過ごした若い思索者たちが、ほんの10年、20年で哲学史を塗り替えていったような知的刺激。その思索を読んだ新大陸アメリカの思索者たちが自らの文学を開発する気概。師匠筋のフッサールに背を向け、「存在」という立った一つの切り口から哲学史を掘り崩そうとしたハイデガーギリシア悲劇に傾倒したヘルダーリンが、ギリシアのように優れた悲劇を創作しようと思ったが作れず、翻訳に転じたと聞いたこともあるが、偉大な思索の元では自らの思索が陳腐であるという謙虚さから、言葉が語れなくなるというのは、おそらく最も賢明な選択なのだろうが、納得ができない。陳腐ならば、そこから始めるしかないではないか。「分からない」のは言うまでもないが、「分かってから書く」のであれば、すでに書く必要などない。「分からない」から書き続けてみる、話し続けてみる。その躍動が、語られたときにそれが可能であったことに気づくような、語らなければ出てこないような日々の調律、思索の様式作りになるのである。ーー。「日記」で「気まぐれ」や「儀式」の話をしてから、「気分と調律」の気分の話へと至り、私にとって納得の行く様式が出来上がってしまった感がある。言い方を変えれば、「日記」を書き終えたときのような思索における倦怠感、自分自身が次に何を書くのかを予想できる陳腐さを感じる。

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"The general use of speech is to transfer our mental discourse into verbal, or the train of thoughts into a train of words, and that for two commodities, of which one is the registering of the consequences of our thoughts, which being apt to slip out of our memory and put us to a new labor, may again be recalled by such words as they were marked by. So that the first use of names is to serve for marks, or notes of remembrance. Another is when many use the same words to signify (by their connection and order) one to another, what they conceive or think of each matter, and also what they desire, fear, or have any other passion for. And for this use they are called signs. Special uses of speech are these: first, to register what by cogitation we find to be the cause of anything, present or past, and what we find things present or past may produce or effect -- which in sum is acquiring of arts. Secondly, to show to others that knowledge which we have attained, which is to counsel and teach one another. Thirdly, to make known to others our wills and purposes that we may have the mutual help of one another. Fourthly, to please and delight ourselves and others, by playing with out words, for pleasure or ornaments, innocently" (122)

Hobbes.

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"A is B." This takes granted the "is." There is already a disclosure. It allows for the asking. and the asking or answering does not exaust the precedent that allows the "is." Dewey's "is" sounds like a Spinozism, but if we take it with "the philosophic fallacy," it becomes Schellingiean because we seek for a reality that is beyond any disclosure of nature.

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Kant's "itself" is negative. Freedom is the positive conception of the "itself." For Dewey, it is the "ineffable." 

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一日練習しなければヴァイオリンの音色が鈍るように、シェリングについて一日考えない日があると全て忘れてしまう。

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戦後ヨーロッパユダヤ知識人がアメリカに逃れたとき、映画・自動車・道端でのハグやキスが低俗に見えて我慢ならなかったというエピソードはとても好きである。その人たちの感性の是非はともかく、思索や技芸に対する厳しい尊敬がそこにはある。

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1月30日2019年

誰かがすでに言った哲学的見解を繰り返し続けるべきか。「すでに言われている」と言って新しい試みを棄却してしまうと、テクストに後退することになってしまう。その慣習によって、今後、2000年間、同じ後退によって思考を止められる。しかし、あえてその領域を開き続け、立ち戻りながら再構築を試み続けると、新たな思索の航路が生まれる。「ジェンダー」が哲学的問いとして立ち、様々な伝統を吸収しながら、その都度、新たな思索を生み出し続けるように。

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現象学的還元。方法的懐疑。哲学の方法は宗教的洗礼と似た特徴がある。それは精神を純粋化し、思索様式を開発する。

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 「理性」は17世紀ヨーロッパ知識人男性の理想で、21世紀のアメリカ人の理想に当てはまらないとしたら(思索をする人は「男性的」か「女性的」かと言われたら、「女性的」である)、アメリカでの思索の理想とは何か。日本に「近代主義」が一度でも到来したことがあったのか。

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私はこれまで何をしてきたか。私自身が二度と同じように考えられなくなるために思索をしてきた。あるときは、これさえ読んでいればほかのものは何も読む必要はないと思えるほどにデューイに熱中した。あるときはエマソンとソローこそが最も重要だと感じた。聖書やキリスト教について調べる時期もあった。アーレントを学びつくそうとした時期もあった。熱中するきっかけを得ても続かない例もある。現象学分析哲学がその類である。今は、後期ハイデガー、近代哲学、ドイツ観念論がとにかく魅力的に見え、その全てを吸収したいとすら感じている。

臆することはない。その追求を深めればいい。つまり、自分自身の思索を根本的に変えるかもれしない可能性ー次の思索が始まる可能性ーのあるところに向かえばいいのである。それは「コギト的経験」のように、徹底的にテクストに直面し続けると生まれるものである。デカルトの思索は、否定しようのない支点を開始点としたとしたら、私は、肯定する以外にどうしようもない始点(躍動)が開始点となる。この思索の様式は、「思索と文化」で私が「気まぐれ」と呼んだものの延長線上にあるように見える。魅力的な思索の全てを吸収し尽したところで自分が一体どのような言葉を発しているのかが楽しみである。

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私が他者の思索を読む目的は、自分自身が、自分自身にとって、より魅力的な言葉を発したいという以外にない。世の中には「他者」に対して書くことを渇望してやまない人がいるが、私はそれに恐ろしいほどに関心がない。言い直せば、私が難解な思索を読むのは、自分自身にとって面白い日記が書きたいからー思索の気分を開発したいからーに過ぎない。The the art of developing an idea.それを最も魅力的に行うのは形而上学の伝統である。