4月18日2019年

19世紀、産業革命をいち早くなしとげたイギリスは、軍事力と経済力によって、原材資源を求めて海を渡った。アメリカとフランスもこの動向を追いかけた。その都度、通商条約を条約を強制し、領土を奪っていった。

1840年アヘン戦争によって、中国清朝鎖国は崩れた。1850年、洪秀全を先頭として、西洋列強からの独立と封建的支配から脱するための、中国人民の革命運動が盛り上がった。

1848年、それまでは東部を中心としてまわっていたアメリカにおいて、太平洋側が歴史的脚光を浴びた。カリフォルニアに金鉱が見つかり、いわゆるゴールドラッシュが始まったのである。ペリーがアメリカから日本へと出発したのは、こうした情勢においてであった。

1853年7月、ペリー提督が率いる東インド艦隊の4隻が、東京湾浦賀に現れ、港を開くように要求した。当初、鎖国を守ろうとした幕府だが、欧米の最新の文化を目の当たりにし、1854年3月、ペリーが再び来航した際、日米和親条約を結び、下田と函館の2港を開港した。この条約によって、日本の鎖国体制は終焉した。

1858年には、日米修好通商条約が締結された。この条約では、函館、新潟、神奈川、兵庫、長崎の5港を開くことになった。この条約は、日本に不利だとされるが、その理由は、二つある。まず、この条約においては、アメリカ側に領事裁判権が認められているからである。領事裁判権とは、在日の領事が、外国人の犯した罪の裁判ができるというものである。次に、この条約においては、日本には関税自主権がない。関税自主権とは、国家は輸入品に対して自主的に関税を決められる権利である。それがないということは、外国の商品の流入などによって国産品が売れなくなるなどの不利がある。このとき、同時に、幕府は、イギリス、フランス、オランダ、ロシアと、安政の五カ国条約を結んでいる。

日米修好通商条約の条約改正の交渉が開始したのが、1876年である。しかし、交渉は難航し、日本が関税自主権を回復したのは、日露戦争後の1911年の新日米通商航海条約においてであった。

日本が開国したことによって、日本が世界経済に巻き込まれることになり、資本主義の経済圏が地球を一周することとなった。1858年のエンゲルス宛のマルクスの書簡には、「ブルジョワ社会の固有の任務」は「世界市場及びその基礎の上に立つ生産を作り出すこと」であり、それは日本の開放によって結末に至ってきたと書いたそうである。

条約問題に加え、このとき幕府は、将軍継嗣(けいし)問題を抱えていた。13代将軍の徳川家定は病弱であったので、誰を後継とするかが議論となっていた。将軍の候補となったのは、当時、13歳の徳川慶福(よしとみ)と、22歳の徳川慶喜(よしのぶ)であった。日米修好通商条約は、井伊直弼の指示で、勅許なしで調印された。幕府は、このときの諸策に反対する者たちを弾圧した(安政の大獄)。これに対し、計18名が桜田門外で大老井伊直弼を暗殺した(桜田門外の変)。

幕末に一貫する政治的争点は、公武合体論を唱える開国派と、外国を排斥する攘夷派である。開国論は、外国の圧力に負け、情勢に合わせる形でを取るが、攘夷論は、幕府が育て続けてきた思想に忠実であるという形である。

孝明天皇は、外国嫌いとして知られており、それに同調する形で、勅許を得ずに開国した幕府を糾弾する大義名分であった。攘夷派の「志士」の中には、土佐藩武市半平太(瑞山・ずいざん)の土佐勤王党長州藩吉田松陰門下の者たち、薩摩藩西郷隆盛などがいた。

高橋はこのように書く。「かれらは、過激な言辞を弄し、テロリズムやクーデター計画に自己満足して幕府を困惑させはした。しかし、討幕の展望も持たず、いたずらに幕府側を硬直されて血の弾圧をまねき、さらに外国人殺傷や外国船攻撃などが植民地化の危機をすらもたらしていく。このことに気づくには、かなりの年月と犠牲を必要としたのである」(172)。

公武合体工作の何よりのハイライトは、将軍家茂の正室を皇室からも変えるという政略結婚があった。候補者は自然と、孝明天皇の妹和宮(かずのみや)にしぼられ、実現した。

これについての様々な風評がたち、尊攘派の「志士」たちは、これを人質だと憤激した。たとえば、強引な降嫁工作を行った老中安藤信睦を、水戸浪士平山兵介ら6人が襲った。さらに、1862年、幕府は、薩摩藩の事実上の指導者・島津久光を始末した寺田屋事件がある。

 寺田屋事件で始末されたのはごく一部であり、尊皇攘夷の「志士」たちは、「天誅」(てんちゅう)という名目で猛烈なテロを行い始めた。狙われたのは、安政の大獄などで幕府の手先となった者、公武合体運動、和宮降嫁に関係した者などであった。

1862年、幕府は、尊攘派対策として、会津藩松平容保京都守護職に任命した。従来の京都所司代では治安が保てなくなったのである。

その後も、京都は、「天誅」が続いてた。江戸でも、尊攘浪士と称する者たちが集まり、幕府は統制に苦しんだ。清川八郎は、 これらの浪士を雇い入れ、幕府を助けさせるという方策を提案した。幕府はこれを承諾し、約200人あまりからなる浪士組がつくられた。浪士組は、壬生村に宿営した。その後、江戸に帰った浪士組は新徴組ととなって庄内藩下に、江戸の取り締まりに当たった。

清川のやり方に腹を立て、江戸に帰らないグループが生じた。水戸の芹沢鴨、百姓出身の近藤勇、その弟子の土方歳三、仙台脱藩の山南敬助、白河脱藩の沖田総司など13人であった。彼らは、京都守護職松平容保に申し出て、京都にとどまる許可をもらった。彼らは、会津藩預かりの新撰組となり、尊攘派を取り締まった。

ー参考などー

日米和親条約 - Wikipedia

日米修好通商条約 - Wikipedia

加藤祐三『幕末外交と開国』

高橋しんいち『国民の歴史18 開国』

西川武臣『ペリー来航』

渡辺惣樹『日本開国 アメリカがペリー艦隊を派遣した本当の理由』2009

日本の開国