思索

日本の知識人の特徴は記憶の短いことである。 -- 鶴見俊輔

覚え書き、思索が表現する一般性に関する(3)

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魅力的な洞察がたくさん含まれている書物も、経験上、何度もそれとともに考える経験を積むと、その洞察が、自ら自身と異質ではなくなる。惜しむことなく、異質で魅力的な著述に、向か合い続ければいい。自ら自身と異質ではなくなるまでそれらを読み込むことで、自ら自身で思索をした方が、自ら自身にとって思索の栄養になるように感じられるようになったとき、思索は内在的に躍動し始めている。「その」とき、著述の洞察を逃してしまうことに気づくべきだが、それで思索を止めるべきではない。経験上、一生懸命思索をしていると、魅力的な思索が言いそうなことを、自分自身の文章の中で思いつくこともある。そちらの方が、思索の経験としては、血肉となる。そして、書物は逃げも隠れもしない。洞察を逃したり誤読したら、もう一度読めばいい。

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・思索においての言葉を語る試み。肯定、勇気、信仰。利己の秩序ではなく、現実の秩序に向かうこと。

アーレント、デューイ、ハイデガー、パース、ストア派スピノザデカルトキリスト教エマソン、ソロー、ジェイムズ、ティリッヒニーチェドゥルーズカミュ、マルセル、現象学ベルグソンシェリングホイットマンホワイトヘッド

・最低限、自ら自身と異質でなくなるように、読み解きたい書物。

ヘーゲル精神現象学』『大論理学』『歴史哲学』、ドゥルーズ『差異と反復』、ハイデガースピノザ『エチカ』。デカルト省察』『哲学原理』。ニーチェアリストテレスプラトン

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たとえば、カミュや、ドストエフスキーや、マルクスや、ニーチェなど、苛烈な著述家を読むとき、「絶望」や「搾取」に関して、何となく、自分自身の経験に照らし合わせて納得し、理解した気になってはならない。これらは、普通の市民生活の範疇では、異常なものとして、完全に排除されるような、危険で、危なっかしい感情や思想の表現である。自分自身にとって、何となく理解されるような範疇で納得することで、矮小化してはならないのだ。

逆に言えば、思索の試みにおいて、卓越性や真理を追求する場合、必ず、覆い隠された外部性を保持しなければならない。自分自身の想定を遥かに超えた思索のきっかけは未だ発見されていない、という予感を失わないところに端を発する。無論、思索は、終始、自ら自身の経験に関する省察である。だが、省察によって、より私たち自身と直面するのは、その外部性に向かうときである。自ら自身の思索における外部性。そして、覆い隠された真理が現れる経験というのは、とても暴力的である。たとえば、長年寄り添ってきた恋人が、実は最初から嘘をついていたという事実に気づくとき。余命宣告を受け、残りの人生があと数ヶ月しかないことが明らかになるとき。自然世界は人間の味方であったことなど一度もなかったのだと気づいたとき。大勢が集まる公において、特定の人に指を指して、「こいつは嘘つきだ!」と弾劾するとき。こういう、覆い隠された真実が明らかになる経験においては、私自身が持っていたそれまでの世界は、瓦解する。

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東日本大震災のとき、海岸に流れる二、三百人の死者に自衛隊が近づけないというニュースを聞き、「無い」可能性を強く実感した。

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思索の経験を、一般的な仕方で理解するとき、主述で言えば、自らは、主語が躍動した述語としてしか現れ得ない。私自身で留まることは、行き止まりなのであり、自らを主語だと思い込み、それに従属する述語を構想できると思うのは、思索の縮小再生産を生む。

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いかに思索の試みを肯定するか。肯定するには、その全体が前提とされ、それを知らなければ、肯定できないはずである。しかし、肯定されるべき全体こそが、思索の試みが、経験を深化させたいと渇望する土壌である。恋が何であるのかが分からなければ、それを肯定することはできない。しかし、肯定することによって、追求したいと渇望するのは、まさに、すでに前提とされている、すでにその渦中にある、恋である。恋の曖昧さに対し、社会学的、生物学的に、説明したところで、恋を完全に見失っているだろう。「青年期はホルモン分泌が活発で、性的対象を求めるのです」。得も言えぬ恋の経験が無視され始めた瞬間、恋は縮小再生産され、何が恋なのかが分からなくなる。恋の思索もできなくなる。思索が言葉を模索するとき、それ自身が扱い、現れるように語る、思索以前の蠢きを、無視してはならないのだ。

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忘れ去られた問い。あるいは、最初から現在に至るまで、継続しているが、明確に定式化されていない試み。それよりも包括的な概念がなく、それよりも具体的な概念によって説明し尽くせない領野に関する、一般的な言葉を発する準備。そこに留まること。

なぜ、その試みは、今現在、断片化し、拡散しているのか。必要とされていないのだ。思索がなくとも、経験の圧倒的な輝きと有用性の躍動に乗ることで、時間をやり過ごせる。この、不必要であること、曖昧で、所与となっていることも、吟味の素材となる。これらは、何らかの目的因から流れ出た具体的帰結として理解される。個別具体同士の作用因を検討しても、渇望は明らかにならない。だが、具体的に取り上げるのは、個別具体のほかにない。私たちは、すでにこの世界の中におり、生活し、そこで直面する物事を素材にしているがために、何らかの渇望を知っているのだ。その意味で、思索を試み始めるとき、その瞬間に、一般性と具体の本質的パラドックスが、前提とされた形で現れる。語ることによって言葉が言い得ることを求める向きは、言い始めた瞬間に消えた、言ったことによって後退した、肥沃な土壌の方にある。

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原理主義が思索においてつまらない理由。原理主義は、今現在に直面することに失敗している。原理主義が標榜する原理は、過去のある地点に生み出された賜物である。原理主義は、特定の過去を永遠化することであり、現在も、未来も、見下すことである。

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個別具体は、必ず個別具体との関係性の中で生まれる。だが、個別具体を成り立たせるところの渇望においては、個別具体は、それに包括されており、そこから逃れることができない。個別具体は、そのため、安堵できないが、それに従属することもない。個別具体が凝固しなければ、渇望は明らかにならないからである。

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思索が言葉を発することで、言い得ようとしているのは、対象ではない。宗教の試みが、「神」などの対象を扱っていないように。科学は対象を扱うかもしれないが、宗教は人間的な関心事を扱う。思索は、自らの扱う題材を、愛し、恐れ、共にあろうとする。それは、全体的で、逃れることのできない、個別具体を条件づける、経験領域の関心事である。躍動ではあっても、対象ではない。そのため、思索は、そこから距離を取ることができない。距離を取ることは、対象化することであり、思索が言い得ようとする題材を否定することである。

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個別具体をいくら凝視しても、渇望から考えることはできない。思索者は経験主義者ではないのだ。

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否応なき個別具体において、思索の帰結そのものが対象化である必然において、対象化され得ない関心事を触発し、あぶり出すこと。それは、コーヒーが好きで、それを飲む経験を思索するようなものである。それは、「何か」の問いではなく、「いかに」の問いである。だが、「いかに」と言ってみると、それは非常に陳腐である。「コーヒーの味が好きです」。私たちがコーヒーを好きな理由は、「味」などに還元できるのか。私たちがコーヒーを好きな理由は、味を含めた、複雑で具体的な時間と空間の中の、何らかの全体的なものとして同時的に現れる、何らかの直観のようなものに立ち戻らざるを得ないからではないのか。

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真摯な思索は、故郷や楽園を瓦解させるが、それを恐れて思索を否定することは、人間の活動を否定することに等しい。 あらゆる人間の精神的活動は、言葉やイメージなどの、人間的な現れとしての応答である。思索を否定することは、躍動する、対象や機能では言い得ない人間的なものを、対象や機能に戻すことで、安心することである。それは、人間として、人間自身を否定することである。

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思索の包括性故に、思索者には知恵があると思い込む傾向にあるが、思索が言い得る一般性が、個別具体を包摂するが故に、個別具体ではないという事実を忘れてはならない。思索者には、料理やコミュニケーションや楽器演奏の具体的技術はないのである。

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どうにもならないことを考え続けること。だが、世界は、最初からそうであった姿を見せたに過ぎない。安堵できる故郷や、未来の楽園などないのだ。故郷や楽園に戻れると思うことは、思索が生ぬるいということである。

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思索は、いわゆる無の問題とまっすぐ対峙する。今、所与と化している物事の有り様が、そのようにある事実には、必然性はない。科学的命題で正確に説明するのは、その偶然性を覆い隠したり、機能的に再生産したりする道具にはなっても、直面する何事に関しても、それがなぜあるのかを説明したことにはならない。このように考え出すと、あらゆる常識が異質に見えてくる。重力の法則を説明しても、重力がなぜあるのかを説明したことにはならない。自由と必然性が対立する事実で遊んでも、それがなぜあるのかを説明したことにはならない。思索が問題とする題材は、それだけである。逆に言えば、それを扱っていない限りにおいて、思索は全くもって、力も迫力もない。

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思索は、生が継続する中で、生の中から、死の可能性を問うことで、生が何の根拠もないことを証明する。それに対し、「然り」や「否」と答えても、全く対峙したことにはならない。人生最後の日に全てを失い、最悪の死を迎えるかもしれない。誰も経験したことのない死という経験は、非常に苦しいものかもしれない。特定の生を評価できるのは、それが終焉したあとだけである。あるいは、自分自身が身体である、逃れようのない事実に抵抗するように思索をすること。いつか両親が死ぬ事実から思索をすること。最も身近な他者が完全なる他人に見えること。自分自身がいつか死ぬこと。そこには安堵や答えなどない。こうした問いを保持し、言葉を発することにより、その都度、最も結晶化した答えを与え、自ら自身の現在における生を再調整すること。強いて言えば、問いに対する答えは、具体的に、時間の中で織りなされる、自らの人生そのものによって、その場その場で、作られ、織りなされる。

この、矛盾から逃れられない、言葉を発し始めた途端、自ら自身を破壊するような思索は、問い続け、新たな状況に合わせ、語り続けるしかない。その問いがない人生は、ただ単に流されているだけである。その問いと、より苛烈に、現実的に、直面するための工夫と努力が、思索である。簡単な答えは得られないが、私たちは、問いを投げかける能力を持っている事実を疑う余地はない。

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(1)否定できない、逃れられない現実の事実、思索の行き止まり、不可能性から始め、人間の試みには希望や未来などないことを自覚する思索。思索は暴露する。それまで無垢で楽しく生きていたのに、逃れられない事実が、思索において、種として根付く。不安になり、揺り動かされる。その不可能性、限界は、現実そのものの構造や特徴であるのに、意識的に思索をしなければ、それに気付かず、やり過ごすことができる。思索自体も、それを無視する方途になり得る。安易に「答え」を与える思索は、まさに覆い隠している。というか、99%の言葉は、覆い隠す言葉ではあっても、暴露する言葉、見せる言葉ではないだろう。生活の99%の個別具体も、覆い隠す活動である。余暇、趣味、仕事など。だが、それに気づき、自覚する。周囲の人々が寝ている間に、起きていること。

(2)思索においてそれが根付いてきたら、それを受け入れる。受け入れるというのは、諦めるという意味ではない。それは、自ら自身を超えた現実の中に生きている事実に直視する荘厳さである。自分が、特定の時代に、特定の場所で、特定の知り合いとともに、特定の身体を抱え、生活していること。その中では、何らかの既存の抽象的な枠や前例によって、自ら自身を規定する必要が全くない自覚が生まれる。それらを無視してはならないので、(1)が常に稼働していなければならないが、その上で、どう応答するのかには、限定がない。その意味で、思索は、陳腐さを破壊することで、自由を準備する。無論、この自由を背負いきれない者は、自由を捨てる自由も持っている。その自由を請け負う責任が、背景にはあるのだ。存在論的な意味での、自由と責任。覆い隠す活動や思索は、自由も責任も、放棄している。

(3)思索の究極の目的は、逃れようもなく、自ら自身がその一部である事実に対し、その「なぜ」に向かい続けることで、不可能に摩擦を与えることである。(1)不可能を自覚し、(2)自由における責任を発見し、(3)現在に戻ってくること。現在と、それが与える経験に対し、忠実に生きること。現実の裂け目の彼方へと、かきわけて進む決意をすること。

思索の究極目的は、折衷不可能な区別や事実に対し、それらの区別以前における、区別なき究極的凝縮を表現することである。区別とは、その究極的凝縮が自ら自身に対して応答することで生まれた、具体化の作用である。大げさに言えば、この「点」にもならない一点の視点からすれば、地球上の時間や空間の理解すらも、特定の具体化の帰結に過ぎない。現在や、何らかの個別性に、徹底的に準拠しないこと。この究極性に留まることが難しいのは、個別具体の帰結としての区別を採用するほかに、私たちには思索の方途がないからである。それを採用し、矛盾においてズレていく様相を確かめること。

思索の究極性には、本質的なパラドックスがある。究極性は、個別具体に左右されないが、個別具体を見なければ、究極性に直面できない。究極性に、精神の全てを満たされた蜜のような精神は、それを世界に現れさせる。だが、思想は、広がると薄まり、陳腐化するように、精神は、個別具体化していくと、自らを失う。だが、個別具体の対象でもなく、最も包括的な対象でもない、理解不可能な渇望は、物事が具体化する特性上、それとともに、変化し、成長する。無論、変化し、成長した個別具体は、その限りにおいて、究極性の渇望から堕落する。思索と活動に落とし込んで言えば、すでに個別具体の世界に投げ込まれた私たちは、このアブダクションを証明するために、具体的に、思索し、活動し、応答するほかに選択肢はない。生きながらにして、極端に学び続け、新たに結晶化させ続け、具体的な自己証明を行う以外に、精神が究極性と向き合う方法はない。その追求の暁に期待するのは、新たな教師が現れることである。

(4)注視せず、放っておくと、思索の題材は隠れてしまい、堕落する。その題材を現すような言葉を、かき集めた暁に、自由と責任において応答しようと決意した者ができるのは、一瞬一瞬、hesitationのない現れとして、一点の曇りもなく、自らの言葉と人格と行動が、世界によって表現されることである。そこに留まり、不可能性を受け入れながら、それに立ち向かい続ける試みが、成熟することによって、その習慣は結晶化し、大地に立つようになる。折れなくなる。その、不可能性によってクシャッと潰されない、不可能性の、先などない先の、一点などない一点に、自らを置き続ける意識と試みを続け、自らの習慣を改造し続けたとき、その精神は、風格や貫禄として現れる。(1)平凡な日常に挑戦し続ける言葉を模索する努力も不可能だが、(2)そこから発見された不可能な世界を直視するのも不可能であり、(3)それに対し、自由をうけおう責任において現在に全身全霊で、情熱的に参加し、(4)一瞬たりとも隠れない生き様は、一つの存在論的態度である。

(5)思索を継承するというのは、より深く肥沃な不可能性をかき集め続けることにより、勇気を持って世界に参加する後進が、生まれることである。

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愛について思索をするとき、個別具体を見て、吟味し、それらに現れている「愛」を凝縮し、表現する。だが、それは、平均を取ることとは異なる。特定の現れ方が、単なる堕落である可能性もあるし、歪曲している場合もある。究極性への関心事が生きている思索においては、常に個別具体とともに応答するが、同時に、現れたあらゆる個別具体を完全に信用しない必要がある。思索が考える際の絶えざる開始点となるのが、個別具体の表現によって失われている、それを含めた全体性であることを忘れない。

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思索が始まった途端、思索が言い得ようとしていた関心事は、裏切られる。だが、思索を通じてしか、明らかにならない。

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方法論が明らかになるのは、それを実際に試みた後である。実際の試み以前に編み出された方法論は、抽象的で、参考に値しない。具体的な題材と実際に直面しないならば、適切な方法論も導けない。 

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現実に関して問うことによって、題材は前提とされる。それは暴力である。なぜなら、問うた先の題材は、私たちが作ったものでも、支配できるものでもないからである。だが、その暴力にもかかわらず、私たちは問う自由と能力を何故か持っている。この自由と能力は、現実の外ではなく、内にある。いわば、現実に関して問いを持つことは(あるいは、現実があるという予感を持ち、関心を持ち、そちらに向かうことは)、自ら自身の自由と能力が成り立っている不思議を問うことにもなる。私は、その現実を変革する主体や主人公ではなく、帰結であり、ステージに過ぎない。どんな現実のステージであるのかが分からないにもかかわらず、である。だが、それにもかかわらず、私自身は、まるで現実そのものが自らを問うてきるかのように、問いを発する自由と能力を持つ。現実について考えるという暴力に甘んじたくない場合、問う自由において、題材を明らかにすることで、それを尊敬する、許容する、その現れに感謝する向きを肯定するほかに選択肢はない。問いは、何の所以も根拠もない思索の状態を知的に定式化することだが、問いを保持しながら、それを触発した現実に肉薄することである。大抵、当初の問いは、具体的な思索の帰結として、自己解体するだろう。だが、その自己解体において、現実の否応なき事実性を無視しない、尊敬し、感謝し、受け入れる問い方ができるようになる。

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覚え書き、思索が表現する一般性に関する(2)

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真っ白な四角いコンクリートの部屋で人間が生きる時間。

成長するもの(植物やイヌや猫)と共に人間が生きる時間。

人間と共に人間が生きる時間。

人間を人間化する躍動と共に人間が生きる時間。

躍動以前などあり得ない、区別も連続性もなき、その直前と共に生きる時間。

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もしかすると、思索の肥沃な成熟は、統一性、全体性への追求を前提とするのかもしれない。これ以上何も出ない、全て捉えきったと自信を持って言えるほどまでに吟味することによって、かえって差異や還元不可能性があぶり出される。自らの思索から常に溢れており、語ることによって喪失に気づくその背景が、思索の題材なのか。

ここには、逃れることのできない本質的なパラドックスがある。全体が何かがすでに分かっていなければ、何を追求しているか分からないのに、追求しなければ、全体は分からない。この、未だ分からぬ、私自身を超える、私自身もその一部である現実に向かって、その整合性や全体性を前提として、向かうことこそが、勇気や信仰なのだろう。

この向きにおいて、ただ単に流されるのではなく、石ころや、植物や、空や、建物とは異なる、私たち自身特有の現れ方がある。それは、必ずしも「人間」ではない。ある人の身体を見ても、人種を見ても、制作物を見ても、記憶を見ても、どれかを指して、私たち自身の特有性を言い当てたことにはならないように。だが、それはきわめて人間的な何かである。思考の欠如や忙しい日々に流されていても、そのたしかな事実は変わらない。そして、その現実から逃れる選択をしない限り、それを躍動させる勢い、繊細さ、卓越性、潜在性を高め、実現させるほかに、向きはないように思える。

「答えに辿り着かないから無意味だ」とか、「もう答えは分かった」という態度は、最初に想定した統一性や全体性に囚われ、非常に狭い範疇で思索をしている証である。私たちが選んで参加したわけではない、現実の重みと時間の圧力に、翻弄されているにもかかわらず、自ら自身を謳歌させ、躍動させることを、許可する。許す。「にもかかわらず」が大事である。思索は、最も肥沃で還元不可能で、捉えきることのできない現実を自覚させ、思い出させ、躍動させるための結晶の航路ではないか。そこに参加しても、私たちは決して救われるわけではない。いつか超越できるわけでもない。が、自分自身もその還元不可能な躍動のたしかな一部として、何にも順応することなく、言葉を発すること。

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自信は心理状態ではない。それは、思索を試みることによって、まさに覆い隠されてしまうような肥沃な土壌が、自ら自身を構成しているのみならず、自ら自身がそれの表現であることを自覚し、それ故、個別具体の動向にかかかわらず、揺らがず大地に立てることである。confidenceはconfide(「全面的に託す」「打ち明ける」)という語幹がある。必ずしも分かっているわけではない方へ、自ら自身も、一体何をしているのかが分からなくとも、開けて向かうこと。露出され、さらされても、大丈夫であること。To be exposed. To be vulnerable.

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勇気、信仰、自信。そういうものを保持し、躍動させ続ける高貴さ、尊厳。現実に向かうアブダクションにおいて、それを阻害する力にもかかわらず、その追求を躍動させること。この際、何の向きもない暴力的な躍動と、向きを構想しても生命力のない躍動がある。恐怖、臆病さ、倦怠、快楽、知識などに引きずり落とされない躍動への勇気。

unprethinkableのままに、"uniqueness of history" (Dewey)を深め続ける勇気。「自己肯定」とは、自ら自身を取り巻く全ての状況の表現として自分自身があり、自分自身が、それらに還元されない仕方で応答している事実を認め、その弱さと儚さにかかわらず、強く躍動する試みである。その「自己」は、止まった自己、凝固した自己、停滞に安心する自己ではありえない。「自己肯定」とは、常に「実存の危機」に陥る自己であり、思索によってその航路を丁寧にたどることにより、その危機における変化と発見に恍惚を感じることである。スピノザのself-contentmentとは、そういうことなのではないか。"Self-contentment is the pleasure arising from a man's contemplation of himself and his power of activity."

自己肯定ができるように思想を研鑽した魅力的な者は、ほとんどいない。非常に困難な世界への参加の仕方である。だが、それが、現実に参加する、最も荘厳な仕方であろう。

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自ら自身が、どのような状況や現実の中にあるかを理解する方法は、思索である。その意味で、この、現実に生きる恍惚は、思索における自覚によって訪れる。

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いくら数値で測っても、レモンの黄色さを説明できない驚嘆と同様に、私たちが人間として生きている事実、静かに独りでいるとき、言葉を発したり、表現をしたりする事実は、驚嘆すべきことである。そして、人間は、自ら自身が置かれた状況を、肥沃で深いまま、全体的に理解する稀有な力を持っている。徳とは、自ら自身の本質に則ってあることである。嘘がないこと。偽りがないこと。今、自分自身が自覚しているところの、狭隘な「自己」に全く回収され得ない、自ら自身から考える試みへと向かう度合の極端さと、その成果が、徳のある人の言葉や行為となる。- you are at your best when you have no hesitation.

スピノザ哲学の到達点である「神への知的愛」とは、結局、この驚嘆が、植物や動物や人間のみならず、存在する全ての現実において言えるという自覚のことではないか。つまり、単なる表象やモノとしてではなく、何の理由もなく、現れ、躍動する力、権威として。

「同じ」コーヒーカップを再認しても、それが、毎回新しい現れと躍動であることを忘れる。そして、「同じ」を基点に「変化」を判断してしまう。だが、ある瞬間におけるコーヒーカップの現れの奇跡への驚嘆という視点から見れば、「同じ」という視点は、あまりに抽象的で、コーヒーカップを矮小化する。

コーヒーカップの「変化」に気づくのは難しいが、「種」が「花」になる事実は、誰が見ても明らかである。特定の条件下で、不可逆的な時間が、同時的に、全体的に、否応なく、ゆっくりと動き行く中で、何かが何かに「成る」というのは、奇跡的な出来事である。コップに水をあげても、そこから花は咲かない。その所以は、私たちには分からない。だが、その帰結だけはよく知っている。無自覚のうちに行う帰納が、その帰結を導き出したのだろう。コップが水に濡れた状況を何度も経験したが、コップから花が咲いたことは、未だない。だが、「学び」に開けるということは、「種」と「花」の間に必然性がないように、コップと花の関係性に関しても、最終的な結論を下すことはできないということである。

あらゆる人は、現実のほんの一部、一例を見たに過ぎない。試みの失敗例、腐敗、不正義を見たからと言って、思索の試みを反証したことにはならない。世の中の全てが腐っているとしても、「同じ」現実が、私自身の矮小化した理解の世界である自覚があるかぎり、現実世界に向かう知的愛、そのアブダクションは、反証されない。試みる、試すことしかできない。全く予想外の組み合わせを試し続けるほかにない。

スピノザのcommon notionsとは、時間の変化とともに、何かが成る未踏の事実とその恍惚を忘れないように、留め置くことである。私たちが生きる世界を、ただ単に事実として記録するのではなく、躍動が、特定の仕方で具体化し、「成る」ことによって、いわば同一性を得る発見、奇跡に喜ぶ、感謝の言葉である。それは、運命を受け入れることであるとも言える。私たちは、現実を作ったことはないし、作れることもない。だが、そこにしなやかに参加し、物事が時間とともに特定の仕方で変化する事実とともにあることはできる。

「神への知的愛」は、common notionsを集め続けたとき、直感的に納得されるものである。common notionsは、何らかの具体化の結果に関する思索。個別具体において、それを集め続けるからこそ、「神への知的愛」に関して納得する。それは、全ての整数を数えなくとも、「全ての整数」という言葉を使い、その量的な大きさを想像できるようなものである。だが、整数を具体的に数えたことがなければ、「全ての整数」の感覚は分からない。

だが、common notionsの全ては、「神への知的愛」ではない。common notionsは、時間とともに、躍動が何かへと具体化する力、権威の帰結の記録に過ぎない。「神への知的愛」は、その源泉への愛である。神が、自ら自身を愛することである。「全ての整数」には、整数が一つも入っていないように、「神への知的愛」には、個別具体のcommon notionsは入っていない。

繰り返すように、「神への知的愛」は、「知的」である。思索を要する。なぜなら、経験は現在を超えることはできないからである。現在は、それをいくら観察しても、単なる連続性である。コップに直面したとき、それが奇跡的な現れであると自覚するには、コップが、コップではない可能性が想定されていなければならない。その想像力を掻き立てるのは、思索である。

そこで、無のような思索が生まれるわけである。結局、無に関する考察というのは、一つの効用しかない。無は、あらゆる物事の否定だが、それらを前提とした上で、覆い隠された予感として現れる。目の前のさまざまな現実が、実は何の根拠も安泰もなく、不可逆的に躍動している事実を自覚し、その所以のなさに不安を覚えるわけである。これは、シェリングの言う「偶然性」を開くための有無という二項対立図式を借りた、神話的装置である。無論、仮に現実を完璧に説明し尽くしたとしても、そもそも、それらが前提とし、説明している対象が「なぜ」あるのかは、不透明である。そもそも、レモンが、赤でも青でもなく、黄色として現れている事実に対して、事実説明は関心を示さない。有無の二項対立によって達成されるのは、レモンが黄色では無い可能性を指摘することによって、レモンの黄色さが所与ではなくなり、不思議に思えてくることである。人間の生についてもそうである。生は基本的に前提とされているので、それが無い可能性(死)についての省察をすると、生が所与ではなくなり、それが不思議なものに思えてくる。ここに沈潜すると、個別具体の事実や作用因についての説明に、説得力があるように思えなくなる。どれほど正確に作用因を明らかにしても、それが無い可能性において、なぜあるのかが全く問われないからである。

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思索は、具体的に経験したことを、経験自体がその一文脈に過ぎないような、私自身ではない、見えない、覆い隠された何かに、覆い隠されたままで、開かせる、言葉による追想である。その効果は、私自身との直面の仕方が変わることである。恐怖や興味は、特定の対象・原因・目的が前提とされるが、不安と勇気は、特定の対象・原因・目的が曖昧なままである。いやむしろ、個別具体を前提とした上で、それらの所以のなさ故に、それらが現実味を失ったとき、不安は訪れるわけであり、勇気が人間的美徳として必要になるわけである。時間に抵抗できないこと。自然災害で人々の生活が破壊される様子に無力感を感じること。恋人との仲が二度と戻らないこと。死が、この感覚における最も魅力的な例である理由は、その抵抗府可能性において、自分自身が、無くなるからである。

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思索に開かれることは、自ら自身を超え出る、それがどこに行くのか全く不透明な蠢きを肯定することである。現れることを肯定する。

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思索が学ぶ整合性は、現実に関するアブダクションにおける整合性であり、自己や利己の作り上げた整合性ではない。 

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思索は、専制的、権威的である。「平凡さ」や「普段通り」は思索の死を意味する。危機回避、現状の保持、従順、"holding on"、卑屈さは、思索を拒否している。人間関係も財産も地位も捨てて愛に溺れる恋人のように、陳腐な他者の承認に目をくれず、過去を守ったり、直近の未来へと後退したりせず、不可能な未来に向かい続けること。自ら自身でもある現実が、自分自身では気づけないような未来を作っていること。

その権威の唯一の拠り所は、「神への知的愛」のような言葉で表現される、現実が現れ、躍動する事実であり、それをより肥沃で卓越した方へと導くことである。主客、過去の経験、未来の構想、現状。こうしたものが作り出す現実は、思索が自覚させ、思い出させる権威に従属する。

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common notionsの総体が神とはならないのは、common notionsが帰結だからだと書いた。だが、common notionsをかき集める思索の試みは、驚嘆すべき世界を発見し、その現実をより深く理解し、自ら自身が、そこで躍動するためにある。だとしたら、少なくとも、「神への知的愛」においては、帰結の方からではなく、源泉の方から考えることが、特定のcommon notionsに惑わされずに、存在が、自らの、未だ定義され得ぬ目的因を明らかにする向きとともにある思索を試みることができる。

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思索は目的因を扱うのかもしれない。しかし、目的因の帰着点は必ずしも決まっていない。目的因の目的は、可能な目的の一つに過ぎない。無論、私たちは、目的因の個別具体の帰結から思索することしかできないが、目的因を目的因足らしめるのは、その背景となる渇望である。この渇望こそが、思索が言い得ることを求める一般性である。渇望自体には個別性はなく、状況の複雑さに覆い隠されてしまっている。それをかきわけ、かき集めることで、判明で、明確な、渇望を言い得ることが、思索。渇望を明らかにすると、個別具体の躍動にかかわらず、一般的な記述で結果を記すことができる。個別性は、渇望の表現。個人が渇望を持っているのではなく、渇望が個人を表現する。芸術作品が意志を表現するように。個別具体とは、渇望に機会を与えること。渇望は潜在性。渇望は、作用因のように、何らかの関係性において個別性を作り出すわけではない。それは妄想である。作用因の総体は目的因ではない。渇望は、それが真摯である場合、絶えざる成長の躍動であり、具体化へと向かう。

思索を試みる際、過去の成果を熟知していないことは、二次的問題である。渇望を学ぶ極端な躍動が生きている限り、それは時間とともに身につくものである。仮に思索において取り組む分野が異なり、意見が異なっていても、渇望の独自の表現として、学ぶべきものがある先例となる。しかし、その躍動が生きていないならば、どれほど蓄積を行っても、思索は形式的・抽象的となり、縮小再生産へと向かう。これは、たとえば、「芸術」や「科学」においても言えるが、私は、最も原始的な、言葉を発する活動としての「思索」に関してそれを深めることが、何よりの再起する開始点となると考える。また、真・善・美に仕えるよりも前に、そもそも、一人の人間として、この世界に参加する渇望における決意を、凝縮した一般的記述で、書き記したい。思索の言葉は、まるで神々のように、現実を作り出さないが、すでに稼働している、覆い隠された領域をこじ開け、その全体を指示することで、許容する。個別具体の様相が未だ分からなくとも、それが現れ、その時点では予想もつかない仕方で織りなされることを、推奨する。

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「渇望」は、いわゆる意志ではない。意志は、個人や主体のニュアンスが拭えない。渇望は、コナトゥスのように、存在する物事の、自らが湧き起こり、成る力である。

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許容する言葉。リマインダー。それは、隠されたものが、自らを現す場を、特定の個別具体を言わず、それを含む形で、言う言葉。突然、誰かに「聞いてほしい。私は正直な人じゃない」と言われたとき、ドキッとする。その言葉から、その人の正体が現れる予感がする。勉強に熱中しているとき、「あ、雨だ」と知人が言うと、雨が現れる。

主張する言葉ではない。私たち自身を発見する言葉。是非や、「然り」や「否」以前の言葉。なぜ、いかにこのように、自ら自身と直面するのか。葬式のような真剣な場所で笑ってしまう。恥ずかしくて消えたくなるとき。主張する言葉、判断する言葉は、これらを従属させられない。笑いをこらえようとすればするほど、笑いは強くなり、雰囲気をぶち壊す。しかし、その場そのものの中にある私は、逃れることができず、参加者としてしか、言葉を発することができない。

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思索をしなくとも、私たちは、渇望を、何らかの仕方で、無自覚に理解している。何かを欲するのは、その対象化された表現である。ある物事が、そうあるように帰着する際、帰着した結果から具体性を考えるのは、自然である。だが、渇望は、個別具体の対象に限定されない。

その際、ペンがペンとして現れ、直面されることと、イヌがイヌとして現れ、直面されることは、私のような、複雑な、社会関係や政治を構築する、言語を話す蠢きとは、本質的に異なる。その蠢きを「有機体」と言っても、「物体」と言っても、何か重要なものが失われる。イヌを作用因で完全に説明し尽くす標本をかき集めても、「イヌ」が生まれないように、「有機体」としての人間を構成しても、「人間」は生まれない。それを「人間の領域」などと、領域化することに、抵抗があるが、明らかに、物理的・生物的な側面とは異なる人間特有の、直面の仕方・されかたがあるように思われる。これは、必ずしも、社会や政治や文化によって説明し尽されない。それらは、人間的な何らかの仕方の航路の帰結ではあっても、それを言い得る一般性ではないだろう。社会や政治や文化には還元されない、人間の渇望を、一般的な記述によって明らかにすることを試み、その卓越した表現が生まれる準備をするのが、自らがその一部である、人間と、人文学(人間が、言葉を使って、自ら自身が生きている世界に応答する表現)の参加者としての、役割だろう。

「参加者」。参加とは、自らの参加する、自ら自身の作り出した規準によって言い切ったと思い込んだり、支配したりすることができない全体に、自分自身がその一部でもある、その躍動に合わせて、精一杯の自らのスパイスを加えつつ、蠢くことである。参加においては、対象化や道具化とは、躍動の仕方が異なる。愛する者との関係性を保持し、高めるとき、他者を単なる対象として見たり、道具として扱ったりせず、自ら自身では扱いきれない、その他者に信頼して開けることであるように、この参加を試みることは、直面する、その「人間的なもの」を信頼し、開けることである。そして、そこで現れた洞察を、精一杯の言葉で記録する。

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「サッカーをするとはどういう感じか」「恋に落ちるとは、どういう感じか」「日本人として生きるとは、どういう感じか」「ヴァイオリンを弾くとはどういう感じか」というような問いに対する答えを用意することが難しいように、「人間であるとはどういう感じか」という問いに対して、適切な言葉を模索するのは、難しい。

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私たちは、モノや機能と共にあることに慣れ、 自ら自身も、モノや機能として働くように、社会化されている。「人間的なもの」を思い出す試みは、案外難しいのだ。それは、私たち自身であるので、私たち自身に最も近い。しかし、それを完全に忘れ、「人間的なもの」として自らあることができない点で、最も遠くもある。

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思索は、苦難・快楽・不条理・不合理などの現実に直面したとしても、個別具体に拘泥することなく、個別具体に取り組む決意をし、現在に寄り添いながら、摩擦を引き起こし、未来へと向かうため勇気をつくるものであり、それを自覚するための言葉を作ることである。思索者として、どのような言葉を作るのか。

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覚え書き、思索が表現する一般性に関する(1)

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日本語文との付き合い方。日本語は、英語のように読んではいけない。英語文は、構造で捉える。しかし、その視点では、日本語文は、大抵、悪文である。最後に述語が来ること以外に、たしかな法則がないからである。日本語は、終着点を気にせず、最後に述語に帰着する唯一のたしかな事実に向かい、前から順番に読み進め、読点がもたらす文の緊張や分断や曖昧さを心に留め置き、それが織りなされる様子を観察する、そういう言語ではないか。日本語の醸し出す気分やリズムとは、読点や助詞を使いつつ、述語に終着する、曖昧さの作り出す躍動の繊細さや丁寧さ、色合いなどによって決まるのだとしたら、言われたことよりも、言われなかったことの諸相にこそ、日本語の魅力があるように感じられる。

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発見するというのは、必ずしも物理的に直面することではない。それは、思想において、受け取ることに開けたことであり、その開きにおいて織りなされ始める自覚をすることである。名前を知っていた作家や詩人を十年後に発見することがある。その人の思想が、生きた躍動として、訴えかける。作家が発見されると、自分自身で思索をしているときにも、その人の考えが固有性を持って訴えかける。

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私たちは、全く理由や秩序のない世界よりも、酷い理由や秩序を望む。しかし、理由の如何にかかわらず、目の前の世界を理解しようとする営みそのものが、それを触発した世界、親密になりたい世界、思索に還元し得ない世界を覆い隠す。unprethinkableとは、そういう考えなのではないか。未だ思考できぬ。だが、「未だ」の先へと試みるとき、それが明らかになるとは限らない。思考すれば明らかになると誰が決めたのか。だが、その不可能性は、思考への試みが躍動しているからこそあぶり出される。

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論理的であることは簡単である。仮に、思考の混乱に秩序を与える最良の手段が論理学であったとしても、規則に則る営みに力が生まれるのは、そもそもなぜ論理が必要なのかという問いが生きているからである。論理が所与とされることなく、論理が全くない可能性を前提とし、それが背景にあるからこそ、その不安に応答する形で、論理は光る。育てなければならないのは、論理についてよく知る者でも、論理に則ることが上手な者でも必ずしもなく、論理がなぜ必要であるのかを強く自覚する者である。

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 「何を根拠にそう言うのか」という問いは、何らかの命題に思索を還元しなければ納得しないという偏見の賜物である。根拠から始める思索は、一つの思索の賜物である。思索を試みるのに、特定の思索の賜物を前提としなければ始められないのは、思索が臆病か、問いの問題圏が狭隘である。客観的視点や事実に隠れるのではなく、今、ここに、参加する人間として、情熱的に思索をした方がよくないか。根拠がなければ思索ができないというのは、思索の題材そのものを否定する。思索は事実によって無力化されない。

これは科学的根拠に限ったことではない。テクストを根拠にしなければ思考できない者もいる。思慮深い学者にはそういう人が多い。だが、テクストは現実よりも狭い。「現実」をテクスト化しなければ追求が始められないのは、やはり根拠主義が浸透しているためか、現実に対する信頼がないためだろう。思索者として大地に立つというのは、テクストの伝統や理論から深く学びつつも、あくまでも、混乱した、結論のない、会話がどこにも行かずに吸い込まれていく、一過性の、所以なき、陳腐な、目の前の開きから広がる躍動において、勇気を持って言葉を発したり、問いを立てたりすることである。特定の著述における問いを立てるのではなく、今、特定の歴史の中で、特定の人間関係を保ち、特定の関心事や知識を抱え、特定のルーティーンの中にある、寄りかかるべき根拠のない蠢きに向かって、において、問いを立てる。育休を発表した小泉進次郎が日本のどこかにいて、グレタ・トゥンベリがヨーロッパのどこかで環境運動の集会に参加し、中学の同級性のジャズ・ピアニストがニューヨークでコンサートを開催し、人としてとても嫌いな、筆や墨を使った芸術家が岐阜県で今日も制作活動をしている、その、二度と戻らぬ今現在。その蠢きにおいて思索を試みる。根拠は現在を軽視する。だが根拠なき現在に留まることができているから、それが無い可能性が魅力的な問いとなる。無論、そういう領域において思索を発する際、何らかの整合性を作らなければ、言葉は現実に吸い込まれ、何もなかったかのように消え去る。

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自分自身が、ある言語を話し、ある地域で過ごし、ある人々と具体的な関わりを持ち、ある歴史のさなかにある事実を、認め、受け入れ、それに開かれること。

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深い愛。完璧なクラシック音楽のコンサートでスタンディングオベーションを経験したあとの静寂。完全なる絶望。大地震津波。大都市へのテロでのビルの倒壊。こういうときの深い気持ちは、「心理」や「感情」を超えている。そして、本人による気持ちの自己申告は当てにならない。「社会現象」という事実問題にも回収できない。「天使が見える…」「デモで自由を経験した!」「世界は変わった…」。こういう経験は、私自身を超えた、存在論的経験を言い得ようとしたときの、精一杯の失敗例ではないか。最も深いところに留まり続ける思索は、この感覚の、一番遠い一点の、不可能な開き以前の緊張を、常に念頭に置き、凝縮し、言葉を発する。「一番遠い一点」は、「なぜ」という問いの極致。その一点の開き以前の緊張においては、「なぜ」はない。

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「記録」は過去を問わない。「計画」や「構想」は、直近の未来を問わない。両者とも、思索自身の躍動に関する思索が皆無である。

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世界の全てを命題化しても、思索は始まらない。

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心理や主体から思考を始めないということは、大まかに言えば、現実から始めるということ。それは、考えなくてもいいということなのか。否。より思慮深い思索が必要だということである。

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常識と思慮深さ。思索が「思慮深い」と誰が決めたのか。思慮深さは、思考の欠如の視点からの視座である。思慮深いことが武器や魅力となっている間は、未だ思索を内在的に躍動させていない。すでに「思慮深さ」の中にあれ。「思慮深さ」の中で、「思慮深さ」という思考の陳腐さに直面せよ。

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普段、時間は私たちを自動的に運ぶ。目覚まし時計をかける、起きる、朝食を済ませる、出かける、仕事をする、人と喋る、家に帰る、夕飯を作る、寝るなど。だが、その連続性が途切れるときがある。時間が私を運んでくれない。乗ろうと思っても、乗り遅れる。乗り切れない。そのとき、私自身の意思や工夫にかかわらず、時間が動きゆく残酷な事実が明らかになる。それを自覚し、受け入れ、応答する思索。

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思索の題材は、自分自身そのものを含む、自分自身が題材であり、自分自身のみに還元され得ない、自分自身を通じて問われているような、深く肥沃で、凝縮した、無自覚で思考を圧倒的に超えた何らかの蠢きである。思索の題材を人間に還元したり、理解に還元したり、自分自身が好ましいと思える領域のみに還元したりするのは、思索が求める試みの向きとは逆行する。無論、人間を忘れて思索をすることもできないが。

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石ころ、植物、コーヒーカップ、鉛筆、イヌ、人。これらに、何らかの所以や整合性を与えて満足することは、思索を減退させる。思索が整合性を造るのは言うまでもないが、整合性を造るのは、所以や整合性のなさの自覚が、強く生きているからである。目の前の曖昧な広がりは、根源的に、異質である。理由はないのだ。石ころは明日爆発するかもしれない。コーヒーカップは明日ひなびて腐るかもしれない。 

人間は、人間の世界を構成している。約束事が成り立つ。ケアやコミュニケーションが成り立つ。だが、カフェで会議をしている二人の女性の仕草や言語のやり取りは、それがそのように成り立たない可能性とともに見遣ると、非常に不自然に見える。何をガチャガチャ手や口を動かしているのだろう。目線や言語や仕草が理解不能なこと。その他者は、何の前触れもなく、突然ナイフで刺してくるかもしれない。他者を「理解」するというのは、思索ができる最善の試みでありながら、既存の理解へと矮小化する、陳腐な試みである。

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趣味や関心事、何かに惹かれるという狂気。心理にカテゴライズされた「感情」という小包に収まる何かに、私たちは無自覚に、その狂気を順応させる。矮小化せずにはいられない思索が、自ら自身の言葉において、完全に取りこぼしている狂気の予感を、再発見すること。それによって、自ら自身が結晶化する表現の開始点を再考させられること。肥沃で捉え難い狂気に、言葉で整合性を与えることで、現実よりも現実的な渇望を予感させる言葉。

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超克したい問題そのものであるアニミズム的思索を、それが教師として現れる以前の、具体的に現れずにはいられない躍動を、もっと明確化するエチュードの必要性。

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「政治」の思想は、個別具体の科学的実践に順応し、正当化する言葉ではない。個別具体の営みとして流れ出してしまった蠢きを、同じ種類の営みだと自覚させる所以を問い、厳密な言葉で表現することである。政治実践は、場所や時代によって異なる。その時々の区別や包括性を吟味なく受け入れ、特定のモデルを輸入するだけとなったり、特定のモデルと異なるからと言って間違っていると弾劾したりするのは、政治に関する思想が皆無である。だが、そうした個別具体の経験が、全て「政治」の経験だとなぜだか自覚できる場合、それらの経験の中に潜む「政治」という経験の予感をかき集め、それを、それ足らしめるのは何かを問うことはできる。その問いにおいて生み出された言葉は、特定の政治に寄与しないが、政治への渇望として一般性を持ち、必ず個別具体へと向かう。「政治」の思想は、理解可能な形式の可能性である。そして、形式は、目的を持つ。特定の形式に至る以前の、その可能性は、渇望である。だが、個別具体へと向かう有り様は、たくさんある。状況や歴史によって、具体化する様相が異なるからである。具体性に沈潜するだけだと、渇望が具体化した結果とその様相に流され、それを、その経験として成り立たせた一般性を忘れる。

「飲み物」という一般性。「飲み物」は、現実が、特定の仕方で具体化する様相を指す。「飲み物」は、目的である。しかし、「飲み物」という目的は、コーヒーでも、オレンジジュースでも、水でも、満たすことができる。「飲み物」は、これらいずれでもないが、それら全てを言い得ている。そして、それらが具体的に生じる前に、その目的を記述することに成功している。

政治・美・倫理・社会などは、人間独自の目的である。

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"Making love to the whole class and accepting the consequence of being destroyed by it"

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