生活を綴る日常からの哲学書の再構築(4)

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大抵、若者のナイーブな哲学の問いは形而上学的な色合いを帯びている。そうした問いが、不毛な形而上学へと転換していく理由は、その問いに応える文化的媒体が、数百年前の哲学書や宗教しかないからである。しかし、宗教的・哲学的問いを保って現代社会を生きる人は強い。なぜなら、ナイーブな問いについて真剣に思考を巡らせた経験が深いため、目の前の出来事の連続に流されないのである。言ってしまえば、哲学や宗教の目的とは、その問いと向き合い続け、それでも世界に参加し続ける人間を育てることである。

しかし、哲学や宗教を独創的に行う者は非常に少ない。哲学と宗教を引き起こす問いを持つ者は、往々にして、哲学書の専門家になるか、宗教に入信しなければならないと思い込むからである。完成された哲学書や宗教体系とは、ある人や集団が、哲学と宗教の問いに真剣に取り組んだ後にまとめられた研究成果である。研究成果の鑑賞は哲学や宗教の活動とは異なる。美術館で絵画や彫刻を鑑賞することが芸術製作とは異なる事実と同じである。美術館に並ぶのは、芸術家が素材と向き合い続けた成果である。美術館とは、その成果を見せびらかし、自らの活動の周知する宣伝活動である。芸術家の宣伝活動に感銘を受けたならば、自ら何かを造る方がその感情に対して忠実である。同様に、書店に並ぶ哲学書は、成果と宣伝の見せびらかしに過ぎない。それを鑑賞するだけでは、この人らの活動の真髄に触れたことにはならないのである。それでは、哲学書として書店に並ぶ研究成果は一体何をする活動なのか。「円」という比喩を使って説明したい。

職人、宗教指導者、哲学者、芸術家。精神が整っている者に対する尊敬があるのは、思想への憧れが生きている証拠である。こういう者たちは一体何をしているのか。端的に言えば、問いが生まれるごとに立ち止まり、吟味しているのである。しかも、その吟味は、他者を拒否することによって方向性を得ているのではなく、内容の同語反復によって方向性を得ている。たとえて言えば、文学者が物語を描くとき、適当に筋書きや行く末を想定して描くのではなく、筋書きなどには全く関心を示さず、登場人物の心情や選択、それを取り巻く環境を太く豊かに描くことだけに全身全霊をかけるときのように。この人は、外の規準を一切放棄し、その瞬間に描いている表現内容の関係性だけに神経を尖らせている。登場人物に感情移入するあまり、体調を崩すこともある。この種の文学者に共通するのは、いわば精神の領域の回転だけで、体調を崩すほどに悩み抜いていることである。他者に共有でき得ぬ回転について悩むわけなので、結局、自らの内奥にあるものを表現するしかない。究極的に、表現は独りで行わなければならないのは、この回転が邪魔されると滞るからである。

この内奥の回転とは何か。それが「円」である。この円を拒否した者の具体例から始めたい。ローティは『偶然性・アイロニー・連帯』の中で「なぜ残酷さはいけないのか」という問いに対する答えはないと主張する。人が苦しむその事実以上の理屈は必ず同語反復だからである。たとえば、「人を殺してはいけない理由は、『人間』には尊厳があるからである」と答えたとする。この時点で、同語反復の理屈は始まっている。「人間」という概念そのものを正当化することができないからである。ローティはこの具合で、この世界を取り巻く歴史と偶然性に与えるあらゆる秩序を「形而上学」とみなした(ローティはおそらく「この世界」という語彙すらも使わない)。この考えを相対主義だと非難したり、文化や正義の堕落と危惧したりする者がいるが、その不安自体が、ローティの言うところの「形而上学」を抱えている証拠となる。この同語反復が円である。ローティは、その円の泥沼にはまることを拒否し、既存の言論活動の中で卓越することを自らの活動とした。彼が言うように、この営みは正当化不可能だからである。

しかし、「形而上学」が必要か否かという問いは逃れられない問題から目を背けさせる。必要か否かにかかわらず、若者は形而上学的問いを持つ。形而上学的と言った途端、その問いを超自然的なものと結びつけるのは早計である。それは単に、人間社会で生きる過程の必然である。人間は生まれた頃、親や庇護者の世界で育つ。食事や衣服は与えられ、安全も確保される。しかし、環境の変化によって、その庇護から離れる瞬間が訪れる。赤ん坊のときに培ったものの見方が瓦解するのである。親などの親密な共同体という神を失った若い精神は、その分裂の中で不安を覚えるわけである。従来の「世界」は小さな思い込みに過ぎなかったのかもしれない、と。この経験をしたとき、親密な共同体から逃れられない者は、代わりを見つけて安心を得る。が、この人に哲学的思索は生じない。哲学的思索は、この亀裂が生じたとき、「それでは世界とは何か」「私は何をすればいいのか」「私はどこから来たのか」と問うときに始まる。この問いは、必要・不必要という機能や位置づけの次元で片付けられるものではない。問いの追求には言葉が欠かせないため、ローティの言語論的転回には納得する。しかし、哲学は、言語を用いて既存の言語ゲームに参加する営みだけではない。いや、言論が目の前の世界への関心を失い、言語ゲームへと還元された途端、哲学的思索は死に絶えると言っていいだろう。哲学的思索は、従来の世界が瓦解したとき、その瓦解について考える営みである。そして、哲学的思索において言語が中心的な役割を演じる理由は、経験は不確かであり、すぐに忘れてしまうものだからである。その瓦解を忘れないために、哲学は、知的な楔として問いを立てるのである。

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ローティが正しいのは、この営みが同語反復だという事実である。問うたところで答えは出ない。しかし、答えの出ない活動をなぜ行うかという問いは、「なぜ生きるのか」と問うのと一緒で、答えることができない。それではどうして芸術はいいのか。趣味はどうか。文学は。産業は。どうして家族を保つのか。友人に優しくするのか。哲学的思索を不毛だと言い張る者が、そういった強い意見を持つことができるのは、親密な共同体に後退することで問いが育っていないからである。その人は、精神が赤ん坊のままか、すでに人生に諦めているかのどちらかである。

私は哲学的思索が優れていると言いたいわけではない。とんでもない。哲学的思索に没頭する者が役に立たないというのは紛れもない事実である。しかし、それは、人間が、人間という活動を続ける中で創り得る潜在性の重要な一部である。たとえば、人によっては音楽が人生の重要な一部分となっている者がいる。この人は、仕事や生活など、様々な営みをこなしつつ、その都度、音楽に立ち戻り、その変化や発展を人生の重要な一局面にする。この人が音楽に没頭する理由は、何やら音楽に特別な力があるからではない。無論、音楽は脳科学的に良いとか、子どもの心理的発達に寄与するとか、後づけで「証明」することはできるかもしれないが、それは、あくまでも音楽という営みが継続していることが前提である。音楽を正当化する前に気づくべきは、単にそれが人類の壮大な遺産の一つとして継承されており、現代にも生きているいう事実である。この事実によって、世界に参加したての幼い精神は、親密な共同体に強要されたり、個人的にその魅力を見い出したりすることで、それを自ら演奏するようになるのである。

哲学的思索もこれと似た構図で成り立っている。なぜだか問いに固執して言論をした人々が過去にいたのであり、それが継承されている。それに魅力を感じる者は、仕事や生活をしながら、その営みに立ち戻り、自ら演奏するようになるのである。アーレントは『精神の生活』において、哲学的思索が動きゆく様を「生命life」という比喩で説明するのが適切だとしており、それを特徴づけるのは円運動だとしている。

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それでは哲学的思索にはどのような特徴があるか。まず、思索の表現は必ず具体的な経験が開始点である。たとえば、「木が折れそうだ」という思考は自らの経験で覚える。木に具体的にぶら下がったことのない人はその抽象的な表現も理解しないだろう。他にも、一人旅でアフリカに行ってバス停で24時間以上待たされる経験や、中国でぼったくられる経験、圧倒的な権威に暴言を吐かれて萎縮する経験、等々。こうした具体的な経験の連続が全ての思索の基盤になる。

これは現代脳科学の観点からも説明できる。Barselouという研究者がSimulatorという概念を提唱している。「再現」と呼ぼうか。再現とは、ニューロンの働きのことである。私たちが持っている概念とは、言葉のことではなく、過去の複雑な経験によって未来へとプロジェクションされた期待のようなものである。その都度、形成・再形成される再現は、状況の中の混沌の一面への適応である。しかし、たとえば、同じ事物との相互作用を多角的に行うことによって(触ってみる、舐めてみる、歴史を調べてみる、壊してみる)、その事物の概念が明確化する。これは脳科学で説明する想像力である。「想像力」という器官などないのである。想像力とは、ニューロンと環境との相互作用による応答法の形成表出である。そして、想像力を醸成するというのは、様々な角度や層からこの世界を経験することである。

独創性や創造性も「再現」の複雑な組み合わせのことである。たとえば、絵を描くことで考えてみたい。私は絵を描く訓練を全く受けていないが、名古屋での大学院時代、教養科目で色鉛筆で絵を描く授業を一つだけ受講した。先日、知り合いに絵葉書でも書こうと思って絵を書いたら、その授業のときに培った雰囲気の絵を再生産することになった。これが私の「想像力」である。どうして私はこの種の絵しか書けないのかと問うたとき、答えは簡単であった。過去にそのような絵しか描いていないからである。仮に、教養科目でのお絵かきを終えた後、継続的に様々な絵を書いてみる経験をしていれば、私が絵葉書に書いていた絵は大きく変わっていただろう。

哲学的思索に関して何が言いたいかと言えば、哲学的思索が持つ独特のテーマとは、思索者が生きた世界の大まかな特徴のあぶり出しと応答である。戦争を経験した者は戦争を思索する。消費者社会の孤独に苦しむ者は消費者社会の孤独を思索する。病気と格闘してきた者は病気を思索する。哲学的思索を自ら行うことを考える際、哲学が無数にあり得る理由は、人間の経験が無数だからである。

具体的な経験を優れた形式で描写するのは小説である。小説的思索とは、書店に売っている完成品のことではなく、経験のニュアンスを捉えて叙述する営みである。不思議なもので、具体的な経験をしたとき、それを表現する方法はこうして枝分かれする。哲学的思索の特徴は、具体的な経験を具体のまま捉えようとするのではなく、具体同士の関係性を捉えるところである。いわば、経験の共通性を言い当てようとしているのである。なぜかと言えば、哲学の開始点が、瓦解における問いによって成り立っているからである。小説的思索には問いがない。小説家は、目の前の経験を、納得の行く形式で描きたいだけである。しかし、哲学的思索は、具体的な経験が他の経験との相対でどのような意味を持っているのかに関心を持っているため、出来事に沈潜するよりも、出来事同士の関係性やその意味を思索する。言うまでもないが、この区別は曖昧で且つ交差する。自らの営みを明確化するために一時的に区別を保持すべきだが、それが根本的に異なる営みとして区分けされ、さらに最悪の場合、異なる産業にでもなると、人間が豊かな意味を生み出す共通の営みは可能性が狭められる。

ともかく、哲学的思索の抽象とは、具体が様々な角度から織り込まれた経験の成果である。言い換えれば、哲学的思索は、私たちの生きる世界を反映した賜物である。私が苦しいと思っているものは、特定の社会・政治・文化・自然の条件が複雑に折り重なった結実物である。このつながりが発見できないままに哲学的思索をしていると、古典的な形而上学や宗教へと抽象は向かうことになるだろう。しかし、その都度、哲学的思索の出どころに敏感に反応していれば、それは自らの生きる具体的な世界を合理的に理解し、賢明に応答するための指針となる。と、ここまで書いておいて付記するのもどうかと思うが、結局、問いに触発されて思索をする営みが、誰かの真似をするわけでなく、力強く継承されているならば、その人が社会的状況を明確に見えているかどうかなどどうでもいいのである。あくまで一義的なのは経験の亀裂から生じる問いと思索である。それが消え、社会的状況にばかり詳しいだけの人は、哲学が完全に死んでいる。人間は習慣の生き物である。想像力を広げる営みを意識的にしていかないと、すぐに従来通りに後退し、アプリオリ主義や常識の権化が完成する。人間性が抹殺されるのは、こうした後退が主流となり、問いが死んだり、異端視されたりしたときである。

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さて、上述した文学者の説明に則れば、真剣な哲学的思索には、次にどこに向かうのかが分からない、その人の内奥の円が描かれる。その点、哲学的思索は、独りで行われるものである。しかし、哲学は、その性質上、出来事の裂け目から生まれる共通性に関心を持つため、その共通性は他者と共鳴する言論を生み出す可能性を秘めている。小説的思索が一つの状況の鮮明な観察によって他者とつながるものであるならば、哲学的思索は、それを取り巻く状況を明らかにすることによって世界とつながる。哲学的思索が、極めて個人的な営みでありながら、真摯な追求の果てに成熟した先で非個人的なものになるのは、世界には連続性がある証である。文脈を明らかにすればするほど、「私」の問題は「私」で自己完結しないことを自覚する。しかし、哲学的思索は孤独な円運動である。成熟した哲学的思索は、「個人の満足」や「細やか幸せ」のために行われ得ないのである。

無論、予め抽象性を追求すると、空疎で形式的な思索しかできなくなる。また、すでに自らの捉えられる範囲内だけで思索をしていると、その結晶物がどれだけ整った作品になろうと小賢しいものとなる。最も成熟した哲学的思索は、自らの全く手に負えない世界と対決し、本当に答えの分からない追求の中でもがく具体性の中で真価を発揮する。100年前に生きた思索者の書物を4冊読み解く専門家になるより、未だ誰も知性化したことのない、私自身にとって無視できない世界の亀裂について思索をし、世界を読み解く専門家になった方がよほど好ましい。普遍は人工的に作り出すことはできないのである。普遍とは、あくまでも具体的な観察をし続ける中で、後々浮かび上がってくるものである。たとえて言えば、物語の主人公が抽象的な標語を繰り返していたら、その人物の「哲学」は陳腐である。しかし、その人物が、その人の生きる具体的な世界に対する具体的な応答を続け、後々振り返ると、その答えの分からぬ中での応答には一定のスタイルがあったことに気づくとき、そこに私たちは普遍を見る。哲学的思索における普遍を模索したいと思ったら、とにかく具体的に応答し続けるしかないのである。

哲学的思索の円運動を楽しめる人は、二種類の一見相反する態度を持つと好ましいと思う。未踏の新しい思索が生まれる経験をそれ自体として追求して積み重ねる側面と、今現在の思索を根底から覆してもう一度亀裂に戻す側面である。この考えを最も体系的に打ち出したのはデューイである。前者が『経験としての芸術』であり、後者が『論理学:探究の理論』である。デューイの哲学的思索は、大まかに見ると円に関する思索だということが分かる。前者は、よく分からないが環境に突き動かされて完成へと向かう経験の技巧である。この側面がないと、何かが瓦解したとき、平地から人間的な意味を創造する気概が生まれない。しかし、前者は目の前の世界を自明視する。自明視された世界の中で自らの円が加速して動きゆくことに期待する営みである。後者は、円が根底から崩された不安にしがみつき、その原因や結果を明らかにしていく営みである。前者しかない者は卓越した芸術家か官僚になるかもしれないが、現実離れしていく危険がある。後者しかない者は、人間の諸問題に取り組む探究者になるかもしれないが、理由なく衝動だけで創造する力を信用しなくなる危険がある。前者が多いと無責任な思索者が増えるが、後者が多いと、卓越した思索者が生まれにくい。

さらに、円運動の曖昧さに耐えられない人は、円運動の外へと向かおうとする。人生などの問題に直面する者は宗教や体系的な哲学を求め、社会問題などに憤る人は答えを与えてくれる理想理論を求める(ロールズマルクスなど)。面白いのは、ロールズ好きは理想の世界像が先立ち、そこから問題を発見し、マルクス好きは、圧倒的な抑圧が先立ち、どのような個別事象を見ても、それを抑圧の現出だと見るようになる。

しかし、正義や不正義、理想や問題に囚われて忘れてしまうことがある。それは、哲学的思索が、単に、次にどこに向かうのか分からないままに思考に拘る習慣だということである。要するに、結局、思索の執筆と読解は、立ち止まって読み解く技術を教えているに過ぎないのである。そして、著述や研究者は、新たな書物を産み出している。往々にして、「社会」や「歴史」についての読み書きをする人が、今現在動きゆく世界について詳しくなっているように錯覚することがあるが、この人たちが優れているのは、言論を読み解く能力であって、世界に飛び出す能力ではない。時代ごとに新しいテーマの著作が産み出されるが(例:テクノロジーの哲学、民主主義や共産主義の哲学、教育の哲学、アフリカ系アメリカ人の政治哲学、等々)、それらはあくまでも文章の読み書きの応答である。哲学や文学の研究と振興を行う者は、この根底を忘れてはならない。たとえば、「『社会』で活躍せよ」とか「『問題』に立ち向かえ」と吟味のなされていない標語を振り回すようになると、特定の「社会」像や「問題」以外は重要ではないと考えるような狭隘な思想の持ち主になるだろう。

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思索にニュアンスのない若者は、思慮不足から、単一の理想や問題を信奉することがほとんどである。そして、大人になったとしても、思慮不足と煩忙と怠慢から、先人が造った理想や問題を信奉し続ける。そこから逃れた者でも、諦めと情熱の不足から、既存の理想や問題を採用することがほとんどである。無論、円運動のスパイラルが弱々しい者は、古く卓越した表現に寄りかかることしかできないだろう。そして、少しくらい成熟したところで、それらは、巨大な壁として君臨し続ける。過去ほどに確かなものはない。そして、過去から継承される卓越した、円運動を深めるための先例ほどに、安心して身を預けられるものはない(逆に、過去の残した傷に苦しむこともあるだろうが)。しかし、ただ単に過去の再生産に終わるだけでは満足しない人々がいる。それは、卓越した表現という次元においても当てはまり、先人の残した問題の次元においても当てはまる。新しいものは古いものの魅力を減退させ、破壊するわけである。長い文明の中で、今現在生きている者たちの特権とは、古く卓越したものを乗り越えるための、不完全で生命力のある円運動である。そう、円とは、生きている者にしか現前させることのできない力強い動きであり、その円の力強さが、未来の人々にとっての預言として継承されるのである。円運動による破壊は古き良きものを失わせる絶望的な側面があるが、古いものをそのまま保持するためだけの生命は、生まれる前に死んでいる。

哲学的思索をする者は、最も知恵が深い必要はない。最も機動力がある必要もない。しかし、円運動をそれでも加速させる意志に関して、誰よりも前のめりになっていなければならない。円を加速させる意志は、やはり、先例から学ぶものである。偉大な先例と出会い、より魅力的な意志を培い、裏切れ。意志が「あるかないか」「できるかできないか」という二元論の構図で考えても仕方ない。とにかく、恥ずかしがらず、挫折せず、発揮するしかない。特定の他者の言動でくじけるということは、その他者に運命を預けたことになる。繰り返すように、円運動は、その周囲の規準によって評価できない代物である。他者の評価によってその運動を止めようとすることほどおかしなことはない。逆に、他者を育てようとするのもおこがましい。教育は単なる押しつけになり、自由な精神が育たなくさせる。特定の円を押し付けたくない者は、形式的な教育に終始するようになり、そもそも円を知らない若者は、円が回り始める前に飼い殺しにされる。結局、人間が人間を育てることなどできないのである。特定の他者から学ぶということは、その人の力に頼り、自らの回転を遅らせるからである。教育者とは円運動の意志である。その人が教育者である限り、自らの状況に向き合い続け、小さくまとまらず、さらに先へと追求を深める気概を発現させるしかない。「自分が育てよう」などと思うと縮小再生産しか未来はない。あるいは、育てている自負心が所有者意識というつまらぬ感情がうまれる。

人を育てるのは、その人が対決している状況である。その意味で、教育者にできることがあるとしたら、未熟な若者が自ら状況の中でもがく手助けをすることくらいである。しかし、その人が自らもがく空間を奪わないように、哲学的思索をする者は、音楽をする者がその鑑賞や演奏の技巧の発展に精を出すように、ただひたすら、変化を恐れず、自らの思索を深めるほかない。将棋の騎士が「生涯をかけて自分の将棋を作る」と覚悟を決めるように、哲学的思索も、生涯をかけて思索を深め続けるしかない。思索が深まるのであれば、恥や失敗も受け入れるべきである。数十年にわたって情熱を保ち続けることは非常に難しいが、円運動を豊かに表現する人間の営みは、それが不可欠なのである。

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哲学的思索が持つ批判的な力とは、他の人が思考し得ぬ世界の側面を炙り出すことである。たとえば、「自然」について考えたとする。常識の次元では、「育つ」自然や「生命の源泉」としての自然の側面は見えやすいが、「醜く破壊する」自然は見えにくい。さらに言えば、ラディカルなエコロジストが提唱する、「資本主義社会の搾取によって消え去る」自然はより見えない。哲学的思索は、こうして、常識では見られない「共通性」を明らかにする批判になる。究極的には、その人の概念が後進の詩的想像力を喚起した場合、それが次の世代の無限概念となる。それこそ、「神」「自然」「搾取」「世界」「社会」などの類義語となるような、強烈な抽象概念である。繰り返すように、こうした無限概念をはなから追求するのは傲慢だと思うが、自分が今現在注目する思索よりも遥かに大きな世界があることを忘れないことはできると思う。いや、哲学的思索の使命とは、言葉にならぬ無限を忘れないリマインダーであるとすら言えるかもしれない。テーマや主張があるうちは、哲学的思索のスケールが小さいのである。自らの思索の円運動に真剣に取り組むと、自分の吟味の小ささを自覚し、その欠点ばかりが見えるようになるはずである。 誤解を恐れずに言えば、思索をする際、まるで神の言葉の書き写しをしていると思えるほどに、一瞬一瞬の思索の質を高め、他の人は未だ哲学をしていると呼ぶに値しないという程に追求を深める必要があるのである。

無論、繰り返すように、この追求をするためには、具体的な思索の一つ一つが試金石となる。思索のアイデアは出し惜しみすることなく、どんどん表現すべきである。表現しないままに溜めておくと思考が腐るか、円運動が勝手に進んで魅力が感じられなくなるだけである。具体的な思索の一つ一つが丹念であればあるほど、次に生まれる思索は成熟する。そうしてうんざりするくらいに思索を発酵させていく以外に方法はない。慌てることはないのである。こうした真摯な思索が深みを得たとき、ようやく一人の危険な思想家として、若者の世界の崩壊と創造を引き起こす者になるのである。それは、わざとらしい拒否や気味の悪い肯定ではなく、吟味の圧倒的な円運動によって既存の価値や概念に抗しているからである。

生活を綴る日常からの哲学書の再構築(3)

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未来に向かいたいと思ったら、何をするか分からないまま人を集めた方がいい。そして、集まっても「何」をするかを決めず、その集まりから生まれる帰結に任せるべきである。何をするかはどうでもいい。無論、そのように人を集めようと思っても、理由が先行しなければ人が動かない世界では誰も参加しないだろう。この態度で未来に向かうことに目的があるとすれば、その方が面白いから、発見が多いからである。その点、「こういう面白いことが起こってほしい」という曖昧で複雑なイメージをどれだけ信用できるかが大事だということになる。結局、理由もないままに人が集まり、漠然としたイメージだけで進むことによって、後々になって「面白い」は発見される。今現在の状況が「面白くない」「満足できない」という感覚を持っている人は多いはずである。いや、満足していたら追求は始まらない。そうした感覚を持ったとき、現在に失望して止まったり、むやみに怒っても仕方ない。だからと言って、現状に媚びても仕方ない。つまらない人やくらだないことには興味がないならば、面白いものを自分で作ればいい。面白いものを求めて人が集まるのにそれ以上の動機はいらない。とすると、真に受けるに値する曖昧で複雑なイメージを育てることが、面白く未来への向かうコツだということになる。

ここで私が説明したいのは、未来に向かう素晴らしさではない。これは言論の特徴をあぶり出す前置きである。言論によって私たちは未来に向かうことはできない。思索は必ず反省活動である。つまり、過去に向いた営みである。未来に向かいたいと思うとき、私たちが「計画」しているものは、過去がそのまま未来へと押し出されているだけである。思索はその重みを反芻し、理解することはできるかもしれないが、引き起こすことはできない。思考が伴わない未来は単なる現状の連続である。ふと鏡を見て自分が年をとったことに気づくのは、自己が時間の中にあることを忘れているからである。未来へ向かっている感覚は環境と詩情によって想起される。しかし、「進歩」「発展」「時代」言説のように、変化は陳腐な標語によって覆い隠される。「進歩」や「発展」とは、変化が好ましい方向に向かう成功体験を無制限に普遍化した標語であり、「時代」とは、主流の言説やイメージを問わない免罪符である。

哲学的思索を追求するためには、「進歩」や「発展」はもとより、「時代」にすらも阿らなくなる程に吟味を深化させる必要がある。哲学的思索を一つの技芸だという視点から言えば、「時代」「社会」「神」などの概念群から自由になる程成熟した思索者はほとんどいない。成熟するのが良いというわけではない。未熟であることの利点や固有性があるからである。しかし、空手の黒帯保持者と白帯保持者を混同しないように、思索における成熟もきちんと区別をする必要があるだろう。難しいのは、黒帯の凄みを理解できるのは黒帯保持者であるため、白帯の人はその意味も意義も分からないということである。歴史に名が残る文学の意味を本当に鑑賞できるのは、長年かけてその眼を養った人だけであるのと似ている。武術や芸術は一応権威が残っているので段位保持者に対する尊敬があるが、私たちの生きる世界では、言論に対する尊敬はほとんどない。おそらく、誰しもが毎日言葉を使って生活しているため、自らが十分達者だと思い込んでいるのと、言論に達者な人たちが、幸か不幸か声を上げないため、その技巧の高さが見えにくいのである。

付け加えると、思索が成熟する方向性は無数にある。言葉が想起する詩情に関心を寄せてそういう言葉を集める人の言葉は、説明不可能な魅力を発する。こういう人は、散文を書いていても、まるで詩でも書いているような、思わず書き抜きをしたくなるような文章を書く。あと、言葉の形式的な関係性に関心を寄せる人は、まるで数式のような整然とした文章を書く。哲学的思索には両方必要である。詩情にばかり気を取られる人は標語のアニミズムに陥り、「神」「経験」「自然」「絶対無」などの無限概念を信奉するようになる。形式ばかりに気を取られる人は取扱説明書のようなつまらない文章を書く。哲学は、深い理解の追求であると同時に、既存の形式では捉えられない言外のものの追求でもある。形式に囚われすぎると哲学の目的を忘れ、誰かが考えた成果を整理する業者のような役割を担うことになってしまう。

13)

私は言語論的転回を説いていることになる。しかし、私は、言語とその形式にしか思索の意味と関心がないと言いたいのではなく、単に自分自身が物書きである事実を認めたいのである。哲学書はあくまでも「書」なのである。

無論、デューイなどアメリカ哲学の面々は、豊かな経験哲学を共同で鍛え上げ、いわば人生へ参加する豊かな方法を提供している。それを真剣に真に受けつつ、自分の言論にあまり固執しない人は、まるで宗教者のようなミッションを抱えた人になる。それはどのようなミッションかと言えば、圧倒的に経験へと参入していく貪欲さである。非党派的で最も地に足のついた経験哲学はアメリカ哲学だと私は思う。しかし、経験の世界は常に言語を超えている。デューイ自身も『経験と自然』において、彼の経験哲学が理解されたならば、「経験」という語彙を使わなくてもいいと書いている。むしろ、経験の世界で「経験」という語彙にこだわっていると、逆に状況の中から生まれる新しい語彙を軽視するようになってしまうだろう。要するに、経験の豊かさへと関心を向けるために使った「経験」という言葉自体が無限概念になってしまうのである。その点、「経験」を追求するだけでは次なるプロジェクトの構想がしづらいのである。そこで、自分自身があくまでも思索をしている事実に着目することで、言葉にならない世界はともかくとして、それに寄与するための知的技法を開拓できそうだと思うわけである。

さて、哲学的思索はあくまでも判断を求めている。読むことによって異なる仕方で世界に参加するきっかけを得ることが思索の成功である。その好例がキリスト教と聖書である。キリスト教徒は毎週聖書を読み解くことによって、偉大な範例の精神を学び、特定党派に囚われないような奉仕活動をするようになる。仏教徒が『法華経』を読み直すのもこれと同じであると私は思う。私にもそういった書物がある。マルクス・アウレリウスの『自省録』、H・D・ソローのウォールデン、エマソンの論文集、ジェイムズの論文集、デューイの形而上学と美学、等々。私はこうした書物に立ち戻ることによって世界に参加する方法を考え直している。こういった書物は、その教えが大まかで力強いので、特定の文脈に偏ることなく人生に当てはまる気がするのだ。

一見、こうして過去の思索を参考にすることは、規範normativityを求めているようである。宗教者は確実にユートピアを念頭に置いている。しかし、哲学的思索はユートピアを求められない。哲学とは、その開始点から、教義に染まって思考停止をすることを嫌うからである。いや、哲学とは思考停止の拒否から始まると言ってもいいだろう。それでは心もとないと思うかもしれない。それでは私の求めていた答えが得られない、と。そうなのである。世界は複雑であり、答えなどない。答えが分からず不安を覚えたら、その都度、思索と探究によって考えるしかないのである。しかも、どれほど信頼の足る規範が欲しいとしても、結局、それは、産み出した後にしか自覚することができない。無論、その都度、試行錯誤をする中で、今現在を導くために、理想や目標を立てるだろうが、それらは必ず頓挫し、次の目標を立てざるを得なくなる。その不安こそが、哲学の開始点と教義の信奉の瀬戸際なのである。重要なのは、目の前の目標が頓挫したときに失望しないことである。目標と現実の齟齬を見るのではなく、過去から現在に向かう航路を確認した方がいい。航路を確認すると、理想や目標は異なることを言っていても、遠巻きに反省すると、特定の方向へと向かっていたことを後々発見するからである。とにかく続けるしかないのである。

生活を綴る日常からの哲学書の再構築(2)

6)

「自然」と「人間」の対立などの概念。学派と分野。これらは伝統でっちあげたものである。特に後者は大学教授が学問の入門書を書く際のパワーゲームの賜物である。それをあまり真に受けすぎると党派にはまる。純粋さとは世界の出来事に邪魔されない孤立ではない。それは、偏見や虚栄にとらわれず、あらゆる出来事に浸透していく無垢さである。重要なのは、「あれかこれか」と概念のゲームをすることでもなければ、「とうとう見つけた」と追求を止めることでもない。好き嫌いに関わらず、すでに動くものを捉え、その方向性を深め研鑽することである。殊に自分の話になると深刻になる人がいるが、自分自身の問題に直面したときも例外ではないはずである。自分自身と対立してその動きを止めてしまうのではなく、すでに動く気質や性格を見極め、その方向性を見定めることが必要である。ざっくばらんに言えば、自分の好き嫌いに大いに正直になればいいのである。自分の人生選択が全ての人を喜ばせるわけではないことを悟り、自分が生き、効力を発揮できる範囲内で、自らの可能性を見定めていく。世界情勢を嘆き、科学の進歩に驚き、近所迷惑に怒り、家の整理がつかないこと全てにコミットしていたら、自分自身が効力を発揮する領域が薄っぺらになってしまう。私は興味を持ってはいけないと書いているのではなく、今、目の前でどのような世界が広がっているのかを見極めることが賢明であると書いているのである。

さて、芸術を、芸術家の造る事物ではなく、自分の身の回りで直面する出来事に対する結晶化した応答だと理解すると、生活に芸術が浸透した生活をするために、いわゆる芸術業界の事情や形式にコミットする必要がないことに気づく。「芸術についての覚え書き」に書いたように、芸術とは人生の唯一の方法だからである。そして、哲学書とは、「哲学史」に整理されている本をお行儀よく読解することではなく、自分自身の生活する世界について思索をするリマインダーであるとも書いた。そう考えると、生活をしながら思索をする営みは、それを追求する意志と表現がある限り、芸術的であることになる。

7)

いわゆる哲学書は先人による思索の範例であるわけだが、それは、特定の文化圏に生きる人々による「物語」と「シンボル」の摩擦や衝突についての描写や分析であることになる。シンボルとは、人生の中で応答せざるを得ない対象のことである。「人間」や「子ども」だってシンボルだし、自由や平等もそうである。私たちがこの世界にいなければ、物事の区別は存在しない。大自然の中で、大木からヒマワリが咲き、ヒマワリの寄生虫が茎の中でコロニーを作り、ヒマワリはコロニーごと動物に食べられ、ヒマワリの種が動物の胃の中で溶けずに残り、大木が倒れて動物が死ぬとその種が芽吹き、動物の死骸から花が咲く。私たちは、区別を開発し、それに則って生活しているが、自然界の法則にはその区別の必然性がないことが多い。要するに、私たちが自然界の混沌に翻弄されずに生きられるのは、誰かが自然を研究し、環境整備をしたことで、生命が守られているからであり、守られた世界の中でうまく立ち回れるように様々なシンボルを持っているからである。

物語とは、その文化圏の中で意味や意義を持って生きていく上で則らなければならないナラティブのことである。「学校を卒業したら社会人にならなければならない」「アメリカンドリーム」「人に優しくすると自分に返ってくる」などは物語の例である。「イエスを信じれば救われる」とか「座禅をしていれば悟りが開ける」というのも物語だが、これらは身近な生活から隔絶してもなぜか効力を持ち続けている部類である。ともかく、物語に共通するのは、自然界の力を私たちの利害に沿うように整備した後に、あるいはそれとともに、人間の共同体や社会が作り上げた生活様式の方向性だということである。

繰り返して言えば、思索は、シンボルと物語の恩恵や緊張、弛みや歪みなどについての反省活動である。たとえば、思索において「個人」が再起する人はすでに近代社会の物語の渦中にいる。ある思索者による次のような議論を読んだことがある。物語を「個人」が「創造性」によって書くという発想は近代社会の賜物であり、近代以前は共同体が主体として考えられた、と。「個人」などというのはそこからあぶれた異端粒子に過ぎないわけである。私たちが思索を「個人」の「内なる」営みだと考えている時点で、特定のシンボルを真に受けているわけである。また、自分自身を文学的なペルソナに仕立てあげ、思索においてその葛藤や成長を描くという方法もある。ニーチェジョージ・サンタヤナはそのように思索をしていたという研究がある*1

さらに、現代哲学では、「言語」を基礎とした思索が流行しているが、たとえば、マーク・ジョンソンは、その思想は、一つのメタファーに固執することだと指摘している。17世紀に「自己」についての思索が流行したように、この人たちは、「言語」についての思索をしているというだけである。そのため、「形而上学は終わったから『言語』についてだけ語ろう」という主張自体が、すでに一種の「形而上学」(固定化したメタファー、問うことのできないブラックボックス)を抱えているのである。

ギリシャの人たちが哲学をしていたのは間違いがない。それではこの人たちは一体何をしていたのか。この人たちは、自分自身の生きる文化圏の文化芸術を背景とし、そこで生きているシンボルを概念化し、理解を深めたり、その文化圏の「物語」に挑戦したりしていたのである。哲学史研究者は、往々にして、ギリシャ哲学のイデアが特定文化圏のシンボルであることを忘れ、それをまるで普遍的に意味を持つ概念だと考える。しかし、キリスト教の物語の群によって「政治」や「倫理」について語っても説得力がないように、ギリシャ哲学の概念群に戻らなければ「政治」思想や「倫理」学ができないという考えには説得力がない。どの世界にも原理主義者がおり、その人たちが業界を守っているので、このような考えを持つ人は業界から静かに去ることになる。要するに、哲学をしようと思ったら、ギリシア哲学や特定の無限概念に固執するのもいいが、自分自身の生きる世界の物語やシンボルを丹念に学ぶ方がいいと思うのである。そちらの方が哲学的だと思う。 

8)

先人の具体例をいくつか挙げよう。 たとえば、「形而上学」とは、その文化圏の取り巻く大きな背景のことであるが、ウィリアム・ジェイムズは『多元主義的宇宙』で、多元主義を一つの宇宙論として提起している。これを哲学者が考えついた偉大な思想だと捉えることもできるが、実は、19世紀から20世紀前半にかけて息巻いていた時代の空気感を、過去の哲学書と対話させつつ、概念でまとめただけである。

デューイの『公衆とその諸問題』は、20世紀前半のアメリカの社会変動を危惧した社会理論である。当時は、蒸気機関や電子機器が開発・普及し始めた時代である。デューイは、アメリカに生きている人々が急激な社会変動の中で世論を作れていないことを問題視し、この理論を展開している。「デューイ哲学」の文脈でこの本を読み解くと、どうしても教義の次元で読んでしまい、社会理論の文脈で読み解くと、他の理論家と横並びになることで形式的な比較検討になってしまう。しかし、この著作は、たしかに20世紀前半のアメリカという時代に対する理論的応答なのである。

W・E・B・デュボイスは、1903年に『黒人の魂』という著述を書き、これがアフリカ系アメリカ人の運動において重要な位置を占めた。非常に美しい記述が多いのでテクストだけを読み解いて満足してしまいがちだが、やはり彼の文脈を見てみなければならない。世紀転換期のアメリカと言えば、年間数百人のアフリカ系アメリカ人がリンチされたり、公共施設での差別が公の法律として通った時代である。最も酷いのが、1899年に、サム・ホーズという人が、公衆の面前で焼き殺され、身体の一部分がお土産として販売される事件である。こういう時代に、社会学者として活躍していたデュボイスは、社会学・歴史・個人的経験や逸話を織り交ぜつつ、カラー・ラインという概念を開発し、アフリカ系アメリカ人の人権問題に取り組むべきだと主張したわけである。デュボイスの著作は「黒人文学」として括られがちだが、彼の出版活動はそのような生易しいものではなかったのである。この本は、当時のアフリカ系アメリカ人知識人の間で、いわば哲学ー魂に響く著作(?)ーとしてよく読まれたそうだが、それが社会状況に対する理論的応答だったという事実を忘れてはならない。

9)

思索者たちは、自分自身の思索に感情移入し、その価値を過度に信じ、自分が一体なぜそれを書いているのか関心を示さない。言い方を変えれば、思索者は、自分が言葉を発している事実に陶酔し、その応答がどのような社会・自然・歴史の表出なのかを無視・軽視する傾向にある。

まず、思索が無力な営みだということに気づく必要がある。哲学書を読んだところで、世界に対する理解は深まらないどころか、優れた人間になれるわけでもない。思索と読解は、無数ある人間の技術のうちの一つに過ぎないのである。哲学書を読むことで何かが深化したと思うことは、あたかも、人生ゲームの双六をした人は人生の達人になったと思うようなものである。双六は人生ではない。双六をしても人生の展望はつかめない。こういう例を出すと陳腐に見えるが、哲学書の読解・瞑想・政治的ラディカリズム・宗教など、いくつかの営みに関しては、なぜだかそういう力があると考える人がいるから不思議である。

結局、思索とは、言葉を発することを好む人々の交流以上の何物でもない。だからこそ、思索は、一体何に対して応答しているのかを明確化する必要があるのである。私的な思索は、自分の思考を整理するために必須だが、たとえば、それを使って社会運動を始めようと思うのは、駅前で宗教の布教をするようなものである。それが悪いというわけではないのだが、やはり説得力はない。どうして始めて出会った人の性格、歴史、展望、職業などを知らないのに、人生の究極目的が分かるのだろう。大抵、こういう人は日本や世界の歴史や文化についてもあまり知らない。繰り返すようだが、この種の論理は、人生双六をやったから人生の意味が分かります、と言うようなもので、非常に問題のある思索の態度である。

私が哲学書と聞いて想像するのは、人生や世界の見え方を根本的に転換する思索である。具体的に言えば、私たちの文化圏の物語やシンボルに説得的に一石を投じる思索である。私たちは普段、物語やシンボルに支えられて人間らしい生活をおくっているわけだが、それにがんじがらめになることもあるわけである。魅力的な哲学書は、そうしたがんじがらめを暴露し、異なる思索や人生の可能性を見せる。たとえば、19世紀、アメリカの知的独立宣言に寄与したエマソンは、ヨーロッパの伝統に媚びを売ることに嫌気がさし、アメリカでの表現をすべきだと説き続けた。当時のアメリカ知識人たちはエマソンの著述を読み、そこから実験的な表現がたくさん生まれた。エマソンには一体何ができていたのだろうか。思うに、それは、「問題の現象学」がである。自分自身が気になって仕方ないものが何かを、社会や文化の状況を踏まえて知的に表現できたのである。言い換えれば、彼の生きている世界における物語とシンボルを明らかにし、その問題を魅力的な形式で表現できたのである。

10)

子どもは大人にナイーブな問いを持ってくる。「何をやっているのか」「これは何か」「どこから来たのか」「何のためにやっているのか」。大人は、こうした問いに対する答えを用意できないからごまかしてやり過ごす。具体的に言えば、特定の業界の目的を教えたり、黙殺したりして、問いを滅却する。この問いが全く育たなかった人は、子どもが当初持つ「世界の役に立ちたい」などという目標を「甘い」とか「ロマン主義的だ」などと言って棄却する。しかし、仮に業界に従事したとしても、数十年して、その業界の長になったとき、そうした問いは再起する。業界の舵取りは、その答えとしての判断だからである。

この問いに対する答えを出すには類まれなる知性が必要である。何のためにやっているのか。この問いに対する答えるためには、人類がどこから来て、今現在どのような状況であるのかを理解し、それがどこへ行くのかを見積もらなければならない。考えても見てほしい。世界には数億人という人間がおり、そこには固有の文化・政治・経済・自然・言語・芸術などがある。そうした人類の複雑な営みを大きく理解していないと、それがどのような共通の運命を辿るのか考えようもない。

アニメや小説などの芸術作品は、問いを想起することはできるが、答えることはできない。宮﨑駿作品を何度見返しても問いは深まらないのである。その問いとの対決が本当に始まるのは、テレビの停止ボタンを押して、自ら世界に出ていったときである。単に自分の属する共同体や業界の「答え」に甘んじることを拒否するとしたら(家族・宗教・会社・大学や学校などの教育機関など)、その「答え」は、知性を駆使することによってしか見えてこない。ここに知性の重要性が輪郭を顕す。

哲学の目的が何かを一概に言うことはできない。しかし、たしかに言えるのは、ナイーブな子どもの問いを追求する大人を育てることが土壌になるということである。それがなくなると、目の前の利害、小手先の方法論、承認などに終始する人ばかりになる。「あなたの追求したいことは何か」と問われたら、人類がどこから来てどこに行くのかを考えることだ、と私は真剣に答えたい

そのためには何が必要か。聖書をモデルに考えてみたい。聖書とは、人類の起源と目的が記されているが、大まかに、次のようなことが書いてある。1)救済されるべき特定の民の歴史、2)過去の範例(救世主)の紹介、3)弟子たちの応答、4)未来の予言、5)詩や箴言の数々である。これらに納得すれば、イエスの始めたプロジェクトを現代に蘇らせることができるわけである。しかし、聖書の内容だけに学びを限定しない場合、次のように言い直すことができる。人類の起源と目的を明らかにするためにすべきは、1)きちんと歴史を学ぶ、2)魅力的な生き方をした人の思想や態度を学ぶ、3)そうした人々に感化された後進の系譜を学ぶ、4)現代的状況を加味した上で動向を見極める、5)問いに生命力を持たせ、事実には還元不可能な人間的意味を明らかにするために、詩・文学・映画・アニメ・哲学・演劇などから学ぶ。

11)

未来がどうなるかは分からないし、分かったと思い込んでも仕方ない。物事の意味とは、それが終わった後にしか考えることはできないからである。しかし、未来が分からないからと言って、現在に絶望していても仕方がない。そして、希望を持たないことをひけらかす卑怯な人間にはなりたくない。哲学者たちがすべきは、哲学の目的を追求するために、その表現を続けることである。その表現を「預言」と取ることもできるが、より正確に言えば、もっとやらなければいけない!もっと知性を駆使しなければいけない!という次なるプロジェクトの呼びかけである。そうしたプロジェクトが育たない限り、目的として想定された未来は永遠にやってこない。そういう意味で、哲学は過去と未来をつなぐバトンである。ただ古いものを継承して整理するだけではなく、一度自分を通し、自分で調べたことを結晶化し、次の世代に受け渡す営みである。 哲学をするのに思想や信条が全く必要ないことが分かるだろうか。研究すべきことは、どこまでも広がる目の前の世界に揃っている。あとは、そこに寄りかかり、参加していくだけである。哲学は、人間が人間らしくそこに参加する営みを持続させるための地図を描く道案内である。それに取り組む人たちが発する問いは、一見ナイーブに見えるかもしれない。しかし、そうした問いと、そこから生まれる人間の力を信じて常識や業界に逆らう人が消えたときこそ、芸術や文化が死に絶えた証拠だと思う。

*1:Alexander Nehamas Nietzsche: Life as Literature (1985), Thomas Alexander, "Santayana's Sage: The Disciplines of Aesthetic Enlightenment" in The Human Eros (2013).

生活を綴る日常からの哲学書の再構築(1)

1)

「思索と文化」(9.30.2016)と「日記」(2.19.2017)は「思索」にこだわる自己信頼宣言であった。しかし、自分が思索をしているからといって他の営みがおかしいとか劣っているとは到底思わない。むしろ、高く厳しい世界で文化芸術に勤しむ人々の表現を何よりも尊敬している。私は17歳のときから成り行き任せに日記を書いているために思索に関心が向いたというだけであり、それは無数ある文化芸術の一つに過ぎないのである。

名古屋にいた頃、様々な出来事にさらされて世界に対する希望を失った。そのとき、思索の私的な世界へと後退することで助けられた側面が拭えない。しかし、アメリカに来て一年ほどが経ち、いわば形而上学的な栄養を蓄えるだけでは物足りなくなってきている。隠れなくとも折れない自信がついたのだと思うが、それよりも、これだけではどこにもいかないと思うようになったのである。且つ、私は、たとえば、ヘーゲルの『大論理学』を読み解く専門家になりたいわけではない決してないのである。

2)

哲学が、仮に、テクストを読み解くだけの理屈屋の営みだけではないとしたら何だろうか。なぜ私たちはいつまでもプラトンヘーゲルを読んでいるのだろうか。「芸術についての覚え書き」(5.27.2018)を書いたことで、これに対する一種の答えが出た気がする。私が追求しているのは、数値や常識では押しつぶせないほどの圧倒的な精神に出会うことである。そして、そういう精神が下からどんどん突き上げてくる土壌を経験したい。結局、デューイの一連の著述とは、いかなる公の教育でも育てることのできない生徒、あるいは、文化の守り手すらも追いつけない教師の育成を追求しているのだと最近思う。『公衆とその諸問題』で民主的な公衆が育つのを期待したり、『経験としての芸術』で芸術が日常の経験から育つのを期待したり、『論理学』で探究が動き出すのを期待したりしたのは、著述者自身の想像を超えた文化が育つのを心待ちにしていたからなのである。アメリカの知的文化にとってはエマソンがそのような人だった。デューイにとってはジェーン・アダムズがそのような人だった。20世紀前半のアフリカ系・アメリカ人にとってはW・E・B・デュボイスがそのような人だった。アーレントの『暗い時代の人々』はまさに彼女にとってのそういう人々の仕事を解説した本である。ルクセンブルクヤスパースベンヤミンなどの精神が彼女にとっての光だったのだろう。

私は決して偉人崇拝をしたいわけではない。その人の知名度を技巧や知性の鋭さと混同する人は非常に多いので書いておきたい。ある人が教室で教師の地位にいるからと言って、その人が参考になるわけではない。その何よりの証拠は、私の出会った大学教授の多くに魅力がなかった事実である。逆に、自分よりも若く無知でも意志が非常に魅力的な人がいる。そういった人たちが未来へと力強く向かっている姿を見るときこそが一番嬉しい。

私が魅力的だと思う人達の共通点とは何か。「芸術についての覚え書き」で書いたように、それは圧倒的な精神の躍動である。そして、誰にも追いつけないほどの力強い躍動の轍に残される繊細な作品の群である。どうりで私は真摯な宗教者が好きなわけである。どうりで芸術家や文学者の伝記を読むのが好きなわけである。

3)

それでは哲学書とは何か。私たちはどうしてソローの『ウォールデン』やニーチェの『ツァラトゥストラ』を読むのだろうか。思うに、哲学書とは学校では読めない教科書である。公立学校ではマルクスの『経済学・哲学草稿』を読ませることはできない。学校が育てようとしているのは、権威が決めた教育水準を満たした恥をかかない程度の凡庸な人間である。生徒がマルクスを知ったら学校に反逆するようになってしまい、教育活動が回らなくなる。要するに、哲学書とは、常識では考えない成長の方向性ついて著した書物、いわばヴィジョンの教育である。

学校では教えられない教科書はたくさん思いつく。その理由は、言うまでもなく、突出することのできる人の思考がたくさんあるからである。ニーチェを読んでしまった人はキリスト教道徳を二度と同じように見ることはできない。ソローを読んだ人は文明嫌いになるかもしれない。デカルトを読み解くと、思考の明晰さと判明さを追求し、きちんと物事を考えていない人に耐えられなくなるかもしれない。新約聖書を読み解くと、イエスの言葉に感銘を受け、他者に与える魅力的な人間になるかもしれない。

哲学書を書くというのは、有名な哲学者の名前をたくさん列挙することではない。それは、自分自身が生きる世界での圧倒的な精神の論理を描くことである。これが難しい理由は、そういった精神の高さに追いつくーあるいは理解するー人材がなかなか現れないからである。そして、そもそも、教育現場では、物事を正確に理解したり、与えられた題材をこなしたりする技術は身につくかもしれないが、そうした題材から自ら逸脱していく技術は身につきにくい。大抵、他人の迷惑をかけない程度の自我が成長し、金銭・地位が手に入るようになると、外的要素で評価される度合も多くなり、思考や表現を忘れる。高学歴の人が突然カルト宗教や占い師に入れ込むことがあるのは、誰かに与えられた規準や枠をこなしてばかりいて、自分で考えたことがほとんどないからであろう。さらに言えば、突出することは「異端」となる危険性を伴う上、21世紀に生きる私たちの世界では「平等」の名目が教義のように謳われている。人の基本的な尊厳が損なわれているときは「平等」は強い武器になるが、誰しもが平板に生活をこなす世界では凡庸さを守って精神を殺す装置にもなる。また、「それは人それぞれでしょ!」という「多様性」を守る文句は多様性を殺す装置にもなりうる。のみならず、突出しても前例や範例がない。他人には間違っていると言われ続ける上、自分自身でも自分が正しいかどうか分からない。相当愚か・怖いもの知らずの若者でなければ、ナイーブな好奇心や情熱は折れてしまう方が普通だと私は思う。

もう一つ言えば、やはり「個人の自由」の領域は守られるべきである。つまり、他人にとやかく言われて生活する必要はないのである。思想や技巧は他人に押し付けるべきではないとも言える。まあ、押し付けようとしたって、それが非常に難しいのは先人たちを見ていればよく分かる。歴史に名を残すような哲学者の本を読み解いていても思索が大したことない人はいくらでもいる。教会に何年も通っているのに宗教心が全く芽生えない人はいくらでもいる。逆に、全く理のないデタラメを真剣に信じている人もいくらでもいる。

4)

しかし、それでもなぜ常識の陳腐さを超えた精神の研鑽を追求するのかという点だが、なぜ生きるのかという問いに答えられないように、答えることはできない。それでも、学校や仕事帰りにふと哲学書を手にとってしまう。それを読めば、より有意義に、より豊かに生きることができるかもしれないと思うからである。それでいいのである。いや、それ以上の理屈は邪魔である。しかし、それは開始点に過ぎない。哲学書を手にとって、そこに答えを求めるのは他人任せである。ふとした不安や空虚さを持ったとき、哲学書を読んで満足をするのではなく、その感情を作り出した環境を自ら探究してみたり、自分の言葉で思索をし、それを「哲学書」として読み返した方が有意義だと思う。もちろん、知的訓練として哲学書は最適だが、別にそれにこだわる必要もないだろう。

哲学書を書いた人々というのは、私たちと同じ普通の人間である。考えるべきは、その人を偉人枠に隔離して崇拝することではなくて、私と同じような人間がそういう本を書くことになった経緯である。今のところ私の答えはこうである。その人たちは、自分なりに思考の栄養をラディカルに吸収し、独りでも表現し続けていた。私は日記書きなので、文学者の日記を読み漁った時期があるのだが、驚いたのは、優れた精神へと大成した人々はとにかくよく書くのである。私から見れば、これは自らのイメージを表現する密かな訓練である。下手だとかアイデアがないとかそういう陳腐な理由で書くのをやめてはならない。下手だと思うなら「下手」について書けばいいし、アイデアがないならば「アイデアがない」ことを書けばいい。手を動かすことによって精神を研鑽し、精神を研鑽することによって手を動かす。結局、哲学書とは、生活の中から溢れ出る、深い、複雑な想いを、客観的な媒体に織り込ませる表現活動の結晶に過ぎないのである。この営みが日常の中で稼働していない限り、他人に見せる用の表現など作りようもない。「嫌なことがあった」ならば物語を描いたり、概念を使って議論すればいいのである。ともかく、日常の最も身近な次元に言葉をいつも持っておくことが、哲学の洞察とともに生きる何よりの秘訣である。

なるべく表現をする回数を増やした方がいい。表現はコップの水と違って減るものではないからである。いや、自分が表現する作品は、制作をしていると、躍動しつつ完成へと向かっていく感覚が生まれる。それはおそらく、自分自身が造ったものが世界(制作途中の作品)の方に記録されて、私の次の思考を導くからである。この発想を真に受けるとしたら、「作品」のためだけに制作をする人の表現が限定された射程しか持ち得ないことが分かる。自分の表現の幅が広がるのは、独りで黙々と考えているときではない。人間が新しい情報を一度に考えられるのは10個以下であり、それらも10秒で忘れる。そんな心もとない記憶装置を頼りにしてはならない私は思う。それよりも、何かを思ったらとにかく世界に出してみる。納得の行く詩を一編書こうと思ったら、その場で書いた文章に固執したって大したものは書けまい。そうではなくて、できることなら100編書いて、その後に最初の一編に立ち戻ってみるといい。自分の予想を超えた表現の幅を発見するだろう。そして、一編は、その100遍の中で現れた表現や言葉を組み合わせ直すことで、ようやく完成するのである。

表現にはどうせ理由や理屈などないのだから、ただただ貪欲にやればいい。庵野秀明は、20代の頃、独りで東京に出てきて、家もないままスタジオ・ジブリに押しかけていったそうである。このエピソードだけで、彼がアニメに対して圧倒的な貪欲さを持っていたことが分かる。人の目を気にしたり、うまくないからと言って自分の中でブレーキをかけたりするのは、表現をする上で、ただただもったいない。

無論、あらゆる私の思念はその文化の中から生まれる。しかし、殊それを自分自身にとって納得できる表現へと抽出したいと思うとき、他者との関わりは注意を妨げる。印象や観念の萌芽を持つこととその表現を同一視してはならないのである。表現が拙い頃は「印象を表現する」と考えるが、表現の方が動き出すと、「表現に引っ張られて観念が後追いする」ようになる。たとえば、宮﨑駿は映画の地図である「絵コンテ」を描くのに2年以上かけているそうである。「絵コンテ」を書き始めた当初に彼がその観念を持っていたと考えるのは不自然である。こうした長期プロジェクトの際も前者の構図で理解する人は、語彙の問題に釣られて誤解をしている(例「アイデアはすでに頭に浮かんでるから後は描くだけ!」)。この誤解をする人は、往々にして、自分よりも技巧や経験の深い人を「天才」・「才能」があるなどと言って祭り上げるが、それは表現をする人間として極めて卑しい。そういう論評しかできない人はまさに「才能」が全くない。

5)

しかし、優れた他者はいる。似たような表現をする人に学んだ方がいいに決まっている。技術や思考が伝わるのは魔法ではない。同じ人と毎日喋っていると使う語彙が移るのと同じで、洞察も人との会話や議論の中で伝達されるものである。音楽業界で技術が高い人に師事する伝統と同じで。哲学の系譜とは、具体的な人間関係である。その人の文章を読んだだけでは分からない。哲学史に名が残った人たちがなぜか知り合いであったのは、そういうことだと思う。魅力的な精神は互いを発見し、刺激を与えあったのである。その意味で、卓越した人々がいる世界で生活できないことは、表現をする者の精神の欠点になりうる。

芸術を造る共同体は成熟すると伝統や業界になる。そこで生き残ろうと思ったとき、伝統を網羅しようとする必要はない。それよりも、そこできちんと生き残っている人の一言を信頼した方がいい。その他の人々による「よかった」とか「だめだった」という助言には固執しない方がいい。しかし、より大きな視点で見れば、そうした教師に執着する必要もない。庵野秀明で面白いのは、より上手にアニメを描くためにジブリに来たが、宮崎駿高畑勲という成熟した二人と一度仕事をして、「もう二人のことはよくわかったんで」と言っていなくなったそうである。尊敬する二人の監督が終着点ではなかったのである。その人たちは仮想敵のようなもので、圧倒的な目標であると同時に、超えるべき他者なのである。彼は、あくまでも自分自身が表現を行うことにこだわっていたいい具体例である。

さらに、究極的には、人間そのものにも固執しなくていい。自分自身が今なぜそこに存在するのかを、自然と文明の歴史を学ぶことで理解し、人間すらも所与だと見倣さない。このラディカルな精神の持ち主になることができれば、その人の表現は人間にすらも媚びなくなるだろう。目の前のパワーゲームに囚われて折衷をしたり、すぐに消費可能な表現ばかりをすることがなくなり、まるで自然そのもののように重みのある表現をするようになる。このような精神へと成長すれば、どれほど大きな潮流や業界にいたって、それが井の中の蛙だと思えるはずである。そう、人間など滅びてしまえばいいと思いながら誰よりも人間らしい表現をする。そういった精神こそが、地に深く根を下ろすような魅力的な思索をすると思う。その精神に対する「どう役に立つのですか」という問いのいかに陳腐なことか。人文知の究極の目的は、そういう芸術、そういう文学、そういう研究を造ることではないだろうか。この人間の使命を言論で知らしめることが哲学だと言うのなら、私は哲学を志して思索をしているのかもしれない。

芸術についての覚え書き(4)

9)

未熟であろうと思索や技芸に引け目を感じる必要はない。引け目を感じるのは常識人の規準で考えている証である。思索や技芸は毅然と行っていればいいのである。無論、道具作りとその機能性によって意義が決められる世界では優れた芸術は減退の一途を辿るのかもしれない。主流の常識と慣習は、進歩や活躍の名の下で思想統制と芸術の検閲をしている。しかし、思索と芸術が消えたらどうなるかは消えた世界が考えればいい。力を失った文化を正当化するために奔走し、そのために表現を疎かにすると衰退はかえって助長する。思索と芸術は守りに入った途端に死にたえるのである。どれほど危険なことを表現しても許されるのが想像力の強みである。芸術に興味のある人が他者の評価に左右されて自己規制し、感受性を磨くことを放棄するのは本末転倒なのである。興味のある人が一人でもいるならば、その人は、他者の評価を気にしている暇があったら次の表現へと向かった方がいい。

繰り返すようだが、思索や芸術は何やら壮大な営みではない。機能的に完成された部屋を「味気ない」と思ってポスターや装飾品で「感じ」を整えるのは表現の萌芽である。この感受性は人生を豊かに生きる際に欠かせない。それを「無意味」だとか「役に立たない」と非難する人々は、権威・地位・ポピュラリティ・時勢などに合わせることに取り憑かれている。そこで活躍する人々の生き方が魅力的だと思わないならば、それに対して申し訳なさそうにして生きる必要はないのである。宮崎駿が、「人類が終わるのは人間が自信を失ったとき」と言っていた。「人類」とは生物としての生存ではない。自らの感受性に則って世界と向き合い、自らもがいて表現を産み出す気概のことである。子どもの頃から与えられた義務をこなして生きてきた人はこれを知らないままに歳をとる。踏みとどまって自らの感受性を信じるのが第一歩なのである。そこに理論などありえない。

感受性の洗練された結晶を公に発表するのが芸術である。スタジオ・ジブリは常にマーケットと逆に進んできたと宮崎は言っている。ジブリが生き残ったのは常に時代の逆に向かってきたからだ。過剰な消費の気まぐれに付き合いたくない。ちゃんと仕事がしたい。ちゃんと受け止めてくれるお客さんに出会いたい、と。あくまでも人間の技芸にこだわっているのである。ここまで極端に人間の技芸にこだわり続けられるだろうか。私たちは自らの思考と技術を信用しないから「時代」や「地位」に説得される。しかし、魅力的な思索や芸術は他者や流れる情報に踊らされないのである。自分自身がそのときにどのようなイメージを抱いているのかをきちんと観察し、愚直に表現する習慣をつけなければならない。「論文」や「小説」や「映画」と名付けるに値しない作品でもいいのである。いや、そういった形式を再生産することしか考えられないのは追求を放棄している。全く情報がない中でも自らのイメージを信頼して表現することを知らない人は、仮に高い次元の技巧を身につけても、誰かのオマージュしか表現できない。他者を参照するのは、イメージをきちんと表現する回転が生まれてからでもいいはずである。しかし、イメージに対する無垢さはすぐに失われる。子どもに絵を教えるとき、見知ったイメージと違うからと言って、「下手だね」とか「それは『目』じゃない ね」と固定観念を押し付けてしまう。そうやって、つまらぬ大人の偏見が、表現の萌芽を、理解のツール程度に堕落させるのである。「うまく造ろう」という気負いなど持たず、自分自身の持つイメージをナイーブに表現する運動こそが、人間の最も尊い技術であると私は思う。若者や子どもが持つその力を信用しなかったり、押しつぶしたりする大人ほど嫌な人間はいない。

10)

それではイメージはどこから来るのか。一つは当然伝統である。どの業界にも作風の流行があるのは、そこに参加する人々の想像力が特定の先人に影響されるからである。思索や芸術は、人生と一緒で、進歩もなければ目的もない。終わるのは単にやめたとき。進歩を感じるとすれば、それは特定業界のエートスを自明視しているからである。往々にして、業界の方向性を人生の方向性と同一視する人がいるが、それは間違っている。業界に支えられてこそ思索や芸術が可能である事実は分かるのだが、それは感受性を方向付ける理由にはならない。業界のエートスによって感受性を自主統制していると、業界人にはなれるかもしれないが、表現は手垢のついたものになる。それこそ、特定学派の本しか読まない哲学者の話は、口を開く前に予想できるように。

業界伝統を守ることで進歩や目的を手に入れることは、人生に意味や目的があるとナイーブに考えるようなものである。人生の意味とは、世界に自ら出ていき、もがいて造るものである。宗教や、社会にはびこる神話(例:出世は偉い)すらも徹底的に懐疑して悟るのは、何もどこにも行かないし、どこかに行っても最後には塵になる事実である。人はそこで懐疑主義シニシズムを発見する。人生を吟味して生きる人にとっては、この見方こそが正解である。サンタヤナは「懐疑主義は知性の貞操である」と言っているが、私は正しいと思う。しかし、彼はこうも言っている。

"But scepticism is an exercise, not a life; it is a discipline fit to purify the mind of prejudice and render it all the more apt, when the time comes, to believe and act wisely" Scepticism and Animal Faith

懐疑主義とはエクササイズではあっても人生ではない。それは、より賢明な信条や行動を支持するときがきたときのための精神の訓練である、と。直面する表現や見解に対する懐疑や冷笑は簡単なのである。しかし、そこに住み着くようになると、精神は、何も育たない不毛の地になる。こういう人たちは自らのイメージを全く信用しない。そして、育ちつつある思考や技芸を破壊し、他者の表現の茶々を入れる専門家になる。そういう人の周りで育った若者は、結果の分からない未踏の領域にコミットすることを危険視するようになり、誰かに与えてもらった領域内だけで探究をすることが当然だと思い込む。

誰にとっても「いい子」でいるということは、誰に対しても自分を説明できるということでもあるかもしれない。しかし、「いい子」は難なくこなす術に長けていても、精神の運動が生まれる前から死んでいる。どうして関心のない他者や嫌いなものに媚びを売るのか。どうして好きなものを追求しないのか。

私たちの社会は無理をするなと言う。うまくやれと言う。自分なりの幸せを見つけよと言う。そんなもの、精神と表現の凡庸さを助長するだけである。くそくらえ。誰しもが一つの方向に動いているとき、その反対に動く人も必要である。合わせるな。結果が分からなくてもやれ。こだわれ。勇気を持って踏み出せ。時代に合わせて生きるな。

足りない。まだ足りないーー。生きよ。ここに留まってはいけないのである。

11)

2つ目は自らの経験である。形は必ず後づけである。混乱の中、それでもこだわって結晶化していると、知らぬうちに形が見えてくるものである。無論、誰かが造った形の枠に当てはまらない形を見つけるためには、とにかくたくさんの他者の形をくぐり抜けなければならない。続けていると、意識せず異なる題材を取り上げても、自分なりの輪郭が生まれてくる。それが流儀や作法である。しかし、そんなものが出てくるのは、幼い頃から訓練をしてきた芸術家であっても30−40代である。私たちのような若い者たちは、自分がどうだと言っている場合ではないのである。

最もいけないのは自らの精神の動きのない形に収まることである。何かに沿ってやっている限り表現は生まれない。この作品がどうなるかなど分からない。文章の結論など分からない。うまくまとまっていないと「分からない」と言って怒る人がいるが、こちらだって分かりゃしないのである。この世界の出来事の中で私たちに分かっていることが一体どれだけあるだろうか。毎日持ち歩いている鉛筆がどのように作られているか分からない。どうして電球に光が灯るのか分からない。隣に住んでいる人の名前も分からない。これだけ分からないことばかりなのに、どうして、自らの未熟で未完成な表現だけは分かりたがるのだろう。私たちが扱っている題材は、言葉で要約できるほどの陳腐な世界だろうか。少なくとも私はそういう傲慢な言葉の使い手になりたくない。

自分にも他者にも分からないような思考をしていればいい。常識に則って生きれば使い勝手のいい他者と便利に繋がれるかもしれないが、そこには自らのイメージがない。みんな同じような感じで喋っている。他者を思いやっているふりをして、そういった感じを醸し出して、うまく切り抜けている。精神の感受性が高く高く洗練するのであれば、他者のことなど全く気にせずに独りで表現をしていればいいのである。他者はどうせ自分自身の表現を都合よく誤解したり、機能としてしか興味を持たなかったりするものである。真似してばかりではいけない。認められる必要もない。どこに当てはまるのか。うまいのか。そんなことに気づけないほど表現に没頭してしいればいい。こうして追求をしていると、他者とのつながりを持ちにくくなるかもしれない。しかし、そういう断絶を抱えた人こそ、かえって徹底的に表現を磨いて他者とのつながった方が充実するはずである。

12)

思索や芸術がエリートだけの偉そうな営みにならないためには、伝統を無視し、自らの作り出す表現だけを頼りに作り続ける人が増えなければならない。うまい必要はない。

無論、圧倒的な教師がいると、それに準拠することに安心してしまう。そして、偉大な教師に準拠すると表現の幅が広がるのは言うまでもない。哲学者たちがプラトンヘーゲルに立ち戻るのは偶然ではないのだと思う。しかし、繰り返すように、形とは、準拠する権威や便利さ、そして他者に評価されるための道具として成り立っているものである。だから、形が繁栄しても仕方ないのである。それよりも、それを形成する精神の感受性が止まっていないか危機感を持つべきである。表現とは、人間が豊かな意味を追求して生きた残留物である。それが「良い」かどうかなど分かりやしない。知恵の出ない者、言われなければできない人、すぐに頼る人は去ればいい。しかし、衰退する運命にあっても意味を求めるならば、その意志を表現しなければならない。いや、意志を表現することが使命なのである。なぜやるのか。意志は意志を造るからである。なぜ生きるのかという問いに対する答えと一緒である。意志を造ると意志が生まれる。意志が生まれると意志を表現したくなる。私はまだ20代だが、きっと年老いてくると新しい意志が見たくなる。期待し、そしてきっと失望する。しかし、だからと言って、やめてはいけない。意志は、意志を表現し続けることによってしか続かないからである。他者を、字面や表現の次元ではなく、それを産み落とす、成長する精神として見たとき、幼い精神に希望を持たざるをえないのである。芸術は避難所などではない。芸術のための芸術も空虚である。芸術とは、人生を生き抜くための唯一の方法である。その残留物に魅力を感じ、その意志に突き動かされて自らの意志が動き出す人がいる限り、止めてはならないのである。

芸術についての覚え書き(3)

7)

魅力的な文化や技芸を作ろうとする必要などない。既存の文化を守る必要もない。重要なのは、今現在自分は一体何と対決しているのか、という問いだけである。しかし、その先のことについても少し考えたい。未踏の領域でもがいた挙句に産み落とした作品は、轍としてこの世界に残る。それが航路として後進を照らす。航路を産み出した人は、後々教師(範例)として発見される。教師とは教授学を極めた人ではない。教授学を極めた職業人は、すでに誰かに与えられた素材を伝える伝道師に過ぎない。

自然の問題は、問題を解消する器具を開発すれば事足りるのかもしれない。しかし、人間の問題を深化し発展させるというのは、信頼の足る人間に引っ張ってもらうことによって達成される。思索や様々な技芸を含めた芸術を文化と呼ぼうか。文化を引っ張る人がいなくなり、誰しもが互いの様子見をするようになると、文化は衰退の一途を辿る。無論、気になるのは、どうやって他者を引っ張る人を育てるかという話だが、繰り返すように、それに対する答えはない。何かが育つのを可能にする条件を整えて待つことはできるのかもしれないが、何が現前するかは、それが顕れるまで分からないからである。たとえば、シェイクスピアの作品は、彼自身が現れる前から可能ではあったが、特定の時代背景の中で条件が絶妙に整って作品は産み落とされた。しかし、だからと言って、作品を書く前の少年シェイクスピアに「凄い劇を書け」と命令するのは不毛であっただろうし、特定の題材を指して、「そこから学べ」と命令するのも可能性を狭めることになっただろう。さらに、いくらシェイクスピアが優れた作品を書いたからと言って、後進がその作風を真似しているようでは、次なるシェイクスピアは現れない。

教師とは、後進に航路を示して消え去る動きのことである。動いている最中には教師を言い当てることはできない。イエス・キリストはカルトを作ったユダヤ教の異端者として殺されているし、カフカは生前出版した作品の数が非常に少ない。ヒトラーは、政権をとった当時はヒーロー扱いされていた。端的に言えば、自分や他人が一体何をしているのか、あるいはある有名人や文化人がどのような帰結をもたらすかは、同時代人では評価できないのである。そうした評価というのは、出来事が終わって振り返ったときに、当時の人々が産み落とした成果を拾い集めて行われるものである。

自分自身を「教師」だと自負する者は、未踏の領域での追求が中座しており、すでに伝道師になっている。教師は、意識的か無意識的にか、自分自身の生き方が万人に受け入れられるものではないことを悟っており、自らの能力の範囲内で、ただただ追求を続ける。教師は自然現象のようなものである。知らぬうちに屋根裏にツバメの巣ができている。今日は波が高く、雨が降っているーー。教師は、黙々と未踏の領域で活動を続けているため、常識人が何となく生活をしている隅で、突然、異物として現れる。その異物の意味とは何か。それが上手に測れる人は、すでに、教授学を学んだ解説者か、官僚か、商品を売りさばくビジネスパーソンになっている。教師が産み落とす帰結は一つの規準では測れない。単純な枠からあぶれていく。だからこそ、文学・文化・哲学の研究者は必要なのである。ある教師が産み落とした理解不能な事物・出来事・文章群はそこにある。しかしそれは一体何なのか。どういう意味なのか。研究者というのは、理解不能な文化的産物を産み落とした人の育ちの背景や、影響を受けた人や書物を穴が空くほどに読み解き、それがどうして、そしてどのように造られたのかを紐解くのである。もちろん、研究者や批評家の重要性は、黙々と作品を産み落として人々を魅了する人がいるという前提の上に成り立っている。

8)

あらゆる教師は教義的な側面を持っている。未踏の領域での追求を続けるということは、結果の分からぬ領野で常に勝負をし続けるということである。結果や正解の分かる領野にいないという点で、教師は教義的であらざるをえないのである。仮に教師が言論で勝負をする者であっても同じである。言論は、合理性や法則を大事にする営みだが、そもそも言論をしなければならない合理的な理由などこにもない。言論に取り組むこと自体が一種の教義なのである。たとえば、ジョージ・サンタヤナは、そうした言論の教義性を強く自覚し、それでも、この混沌とした世界でできるだけ合理的に生きていこうと「理性の人生」を歩むことを決意するわけである。

しかしまあ、「教義的」と言うととにかく聞こえが悪い。実験的・冒険的と言った方がいいのかもしれない。それについて少し書きたい。実験の中で生きる教師には「無垢さnaivete」がある。拠り所にしている伝統や偏見がないからである。他者から見れば、実験の中で生きる選択は、足元が踏み固められておらず、宙に浮いている。実際、足元を固めるのが上手な者は、教師の足元がしっかりしていないところを批判するかもしれない。それに対して、教師は、真摯に応答するかもしれないが、「ふーん」とあまり真剣に取り合わない可能性がある。この人たちは、自分自身が間違っていることを恥ずかしいと思っていない。さらに、この人たちにとって重要なのは、目の前の他者を説得することではなく、実験を進めることであるので、間違いを指摘されたところで自らの営みは変わらないのである。自分自身も未だ実験の途中であるので、それを「正当化」することはできないが、間違っている可能性があるからと言って実験をやめない。「どうしてこのアプローチにしなかったのか」と聞かれたら、教師は「私が選択しなかったからだ」と言うしかない。「このアプローチにしなかったから間違いだ」と言われたら、「そうですか」と聞き流し、仕事に戻る。全ての批判に応答できる必要などないし、何事にも見解を持たなければいけないということもないのである。

この「宙に浮いている」感じは、特定の信仰を持っているように見えるだろう。いや、持っているのかもしれない。自分自身の追求がカルトかどうかは、自分にも、他人にも、分からない。しかし、繰り返すように、重要なのは、実験が深化することである。むしろ、実験をせずに茶々を入れる他者の理論に媚びを売って認めてもらおうとすることこそ、「教義」(や「学派」「信仰」「宗教」「宗派」「常識」「偏見」etc)などのつまらぬラベルのために最も面白い追求を放棄することになるまいか。そういう理論的問題はどうでもいいのである。批評家としての自己によって実験を押さえつける者がつまらぬ常識人になるのはそのためであろう。確実性などどこにもないのである。教師を求める者は、不安を抱えつつも、自分自身に問い続けるしかない。感受性はすでに生まれつつあるのだから、「比較検討」や「社会的意義」などの名目によって根っこから削ぐのではなく、その人間的な意味がどちらに向かうのか、その可能性を想像し、育てることに全ての力を注げばいいのである。

余談だが、キリスト教の論理はこれとほぼ同じである。大まかに言えば、キリスト教とは次のような思考で成り立っている。世界は全知全能な神によって作られ、人間はそれに服するしかない。しかし、不完全な人間は神に到達することができない。そこで、イエス・キリストの教えが重要性を帯びる。イエスは神と人間を繋ぐ媒体であり、その言葉を通じて神を知ることができる。イエスは文章を書かなかったので、21世紀に生きる私たちは、イエスという教師の教えを直接受けることができない。そこで、イエスに直接学んだ後進たちの学びの記録を読み解くわけである。聖書(より具体的に言えば「福音書」や「手紙」)である。私が面白いと思うのは、どれほど一生懸命考えてもイエスの正体は分からないということである。『ナルニア国物語』を書いたC・S・ルイスによれば(熱心なキリスト教徒)、イエスは、神の子かもしれないが、狂人かもしれない、あるいは、人々を惑わす悪の伝道師かもしれない。考えてみれば当然である。ユダヤ教が主流であったローマ帝国で、若いユダヤ教徒が突然「神の声が聞こえた」などと言い出して説教をしているのである。どう考えてもおかしい。それでは真摯なキリスト教徒はどうしてイエスの言葉をそれでも信じるのか。思うに、この人たちはイエスの始めたプロジェクト現代に蘇らせる実験に賭けているのである。イエスのプロジェクトは「愛」の哲学の布教である。理屈や議論で勝負するのではなくて、人に「愛」を具体的に与える(贈り物を与える・人を助ける・必要に応答する)ことによって、教師の説く未来へと黙々と向かっているのである。イエスのプロジェクトを保持することは、未踏の中でもがくことなのである。

9)

教師(芸術や文学、文化、特定の政治に関して卓越した人)の営みを「正当化」できないという点については十分書けたと思う。「正当化」をしたいと思ったら、それよりも前に、後々「たしかな航路があった」と振り返らざるをえないような「動き」が先立たなければならないからである。その動きがあるからこそ「正当化」の問題が生まれてくる。動きすらもない(あるいは分からない)人たちがそれを正当化しようとすると、泥沼の政治談義になるか、空っぽの文化を保持する保守的運動になる。経験上、「正当化」に勤しむ人たちは、その文化の深みや高みに対する感受性がないことが多い。そういった人たちが「正当化」の営みにまわるのは、分からない自分に対するせめてもの慰めである。

こうした思索を自分自身に引きつけて考えると、結局、自分の取り組みの中で生じる何らかの動きを信じられるかどうかに全てがかかっている。究極的には、自分の技芸や芸術は自分の感受性によってしか評価できない。社会的・政治的な横槍が入るかもしれないし、「それは芸術ではない」「それは哲学ではない」「それは文学ではない」「それは宗教ではない」と異端者扱いをされるかもしれない。しかし、それらに惑わされて、感性を深化させることをやめてしまったら、そういった非難が正しいことになってしまう。いや、正しいのだろう。また、信頼のたる他者の評価を大事にしたい気持ちは拭い去れないが、その他者がどれほど偉大な人であっても、その人を信奉することによって、自らの感受性は覆い隠される。さらに、社会的認知(ポピュラリティ)や権威は感受性の深化を曖昧にしやすい。

要するに、感受性を育て上げる責任は全て自分自身にあるのである。「芸術家」「哲学者」「文学者」「宗教者」。文化の人として技巧や洞察を磨きたい者にとって信頼できる規準があるとすれば、それは、それに成ろうとし続け、追求を深めているかどうかである。それが「教師」として現前しているかどうかを気にする必要はない。繰り返すように、「教師」とは後進による他者評価である。それになろうとする者は、すでに向かうための追求が中座している。最も許してはならないのは、自分自身の惰性と偽善である。真摯な追求をしているからと言って「成功」するとは限らないが、それはそもそも目的ではないのである。

"Since success and failure in art are practically indistinguishable, and elude impartial, his sincerity is everything. Not only must he believe in himself even when no one else does, but he must ever strive to do his best on his own responsibility. He cannot be externally held to established standards, for his gift is unique and can be estimated only in terms of itself. His sole obligation is to do what he alone can, and his own integrity is the only guarantee of that."

結果的に、自らの感受性を深めて表現する営みを愚直に続ける者が、教師となる。芸術や文化とは知覚の教育である。ある個人がこの世界を見る仕方が、具体的な事物や出来事に宿り、それが他者に伝わるからである。それに名前が付く瞬間があるとしたら、それは、そこで表現される感受性がその人独特のヴィジョンだからである。ヴィジョンと言うと仰々しいが、それは、自分自身が目の前の世界に参加する統一された仕方を動機づける知覚である。「甲子園に出場したい」「よい企業に就職したい」等々。これらは妄想ではないのである。無論、これらは高校球児と就活生によく見られる感受性であり、オリジナリティがない。だからこそ、「甲子園に出場したい」とか「よい企業に就職したい」というヴィジョンには名前が付かない。しかし、たとえば、デカルトによるラディカルな自己批判のヴィジョンや、ニーチェによるキリスト教批判のヴィジョン、マルクスによる革命のヴィジョンは、その人の名前を付けざるを得ないほどに感受性が洗練されている。それでも、芸術や思索によって生まれるのヴィジョンは、単なる一個人の趣味のようなものである。それこそ、「自分の部屋の色は白基調が好き」とか「なぜだかコーヒーはブラジル豆が好き」という身近な次元の感受性とそう変わらない。自らの感受性を育ているというのは、何やら仰々しいことをすることではないのである。単に、自分がこの世界で生きる意味を考え、表現する営みそのものである。それがラディカルに深化し、独創的な表現として現前すると、客観的な媒体に彫り込まれたそれは、永遠にこの世界に残され、後進を照らす光となる。実存主義?違う違う。自分自身の生を営む過程で言葉を発したり、作品を造ったりする営みが一体どのように「主義」なのか私には分からない。今この世界に教師(芸術家・哲学者・文学者・文化人)がどれだけいるだろうか。思わずそう問うてしまうのである。

芸術についての覚え書き(2)

4)

私の思索が求めていたものはどこか一貫している。今後も変わることはないだろう。それは、エマソン、ソロー、ホイットマン、ジェイムズ、デューイ、マクダーモット、ジョンソン、アレクサンダーなどによって豊かに表現された言外の世界を感知することである。それを「経験」と呼ぶべきかどうかはよく分からない。こうした著述家の文章を読み解くことで、私自身が思索の感受性を高めたかったのである。学部と修士の頃にモンテーニュを二度通読したのも、ニーチェの著述が好きであるのも、そうした感受性を高める何かが読み取れると思ったからである。

ジェイムズは「信じる意志」において、人間の問題に関して言えば、「真理の追求」と「誤謬の防止」は対ではないと言っている。自然科学的な真理においては人間の偏見が入り込むことは問題であるため、誤謬を防ぐ留保と事象を待つ態度が大事になる。しかし、人間の問題では待っていても何も始まらない。練習をしなければヴァイオリンがうまくならないのと一緒である。ヴァイオリンを弾く理由を探し続けてばかりいたら、理由を見つけるためだけに時間を費やすことになり、音楽はいつまで経っても生まれない。

そもそも、自然科学的態度すらも一つの人間の問題である。プラトンの『ティマイオス』の中で、ティマイオスが、失敗することが分かっているにも関わらず、真理を求めることを熱を持って表明しているが、これ以上に人間らしい決意表明があるだろうか。私たちは社会生活を営む中で、科学を称揚し、官僚的に機能する社会に順応することを強要されているため、人間らしい意味や意義を求めることを忘れている。芸術や現象学が表現し続ける、人間の意味の領域の開くような言論や思索こそが、デューイが「経験」と呼ぶリマインダーなのだと思う。

さらに言えば、それを行うために、「何とか学」やら「何とか賞」という規準に従属する必要はないと思う。たとえば、「現象学」と名前を聞くとさも荘厳なことを行っているように見えるが、その人たちが実際に行っているのは、経験の意味を抽出して厳密な言語で記述する営みである。いわば詳細に日記を書いているようなものなのである。その「方法」を使って、たとえば、アイリス・ヤングは女性特有の経験である胸のある経験について議論しているわけである。

しかし、「方法」を身につけるというのは、何らかの手続きを経るというよりも、フッサールからメルロ=ポンティにかけての現象学の著述を穴が空くほど読み解くことによって自らの思考様式が現象学化するというだけである。こうして学に寄りかかれば、厳密な記述をする技術が身につくだけでなく、業界人と会話ができるようになるだろう。しかし、その必然性があるわけでは必ずしもない。そもそも、フッサールに則って記述しなければならない法則はどこにもないのである。バージニア・ウルフではいけないのか。吉本ばななではいけないのか。さらに、現象学者に認められることが素晴らしいことだとも思わない。業界に順応しないからこそ卓越した表現が結実する例だってある。たとえば、ポール・ヴァレリーは、文芸批評家として開花する前、20年程に渡って独りで思索を続けている。

「何とか賞」に文章を従属させる必要もない。これも結局、特定のサークルに認められることが前提となっている。自分の文章を評価する権威的な他者に寄り添って表現しなければならない理由がどこにあるだろう。他者に認められたところで、虚栄心は満たされるかもしれないが、思索の技術が高まるわけではないのである。出版されることが偉いという考えは間違いだと思うし、出版された文章の方が優れているともわけでもないと思う。無論、文章が出版された文章には、相応の水準があるだろうし、その規準を満たすために執筆者の技術が磨かれる事実もあるだろう。しかし、あくまでも思索を深めることが目的であるとするならば、重要なのは、自分自身と折り合いをつけることである。

自分の産み出す文章に納得するならばそれでいい。しかし、納得できないならば書き方を工夫しなければならない。工夫をする際、私たちよりも遥かに優れた形式で思索をしている人たちが世界中にいるわけなので、それらを参考にし、思索を造り直していく必要がある。思索や芸術は科学ではないし、図式的に整理可能なものでもない。そうあるべきでもないだろう。ティマイオスは「真理」に投票すると言っていたが、「人間が産み出す予想不能な豊かな技芸や洞察」に投票する人がもっといてもいいと思う。

そもそも、私たちが目にする学派や流派に活気があるのは、それを援用して次の新しい思索と実験を行っている人々がいるからである。ヨーロッパで哲学をする者、アメリカでプラグマティズムをする者、ラテンアメリカで哲学をする者。この人たちは、自分自身が帰属していると思える系譜を学び尽くした後、そうした概念装置に工夫を凝らし、言葉にならない新しい状況について新たに語り直している。学派や流派を学び尽くして整理するだけでは不十分なのである。

5)

鶴見俊輔にもう一度言及したい。"An Experiment in Common Man's Philosophy"において、彼は図書館などで文献を読み解く人々が哲学的な問題に十分な答えを出せるわけがないと言っている。哲学の問題に答えを出せるのは、人生を様々な角度から経験した者たちだけである。哲学は、私たちが直面する経験をラディカルに吸収することによって成り立つと私も思う。

経験を吸収する度合がラディカルでなければならないと思うのは、大抵、私たちの「経験」は狭い範囲に限られているからである。ドラッグ、心霊体験、神、革命運動、セックス、スポーツ、儀式、歌、ダンスーー。私たちが無意識のうちに倫理道徳に反するとか才能がないという理由で特定の経験を無視している。しかし、新たな思索は、そうした未踏の経験と対峙することによってしか生まれない。

この領野はある矛盾を抱えている。それは未踏であるので、発見するまで考えることができない。なぜなら、私たちの応答や思索は常に過去の素材を借り受けることによって成り立っているからである。きちんと過去を学ぶ者は未来を説明できないはずである。未来とは常に驚きであり、そうした未来が可能であったことは、後から確認されるものである。しかし、だからと言って、過去の整理に安住するわけにはいかない。どうすればいいだろうか。私がこれまで行ってきたのは、今現在私が持つ素材を使って考え尽くすことである。見えないものを見るのはどう考えても不可能だし、軽く表面を撫でる程度の新しい経験は気のせいか気晴らしの域を出ない。自分自身が持つ素材の外に目を向けようとしても、結局、中途半端に終わってしまう。そこで、自分自身の狭さや偏見を嘆くのではなく、その限界の範疇で徹底的に自分なりの結晶物を造るのがいいと私は思う。たとえば、哲学書の読解をしているのであれば、何となく一読して終わるのではなく、論文を一本書くつもりで論点を探したり、日記などに綿密な読解記録をつけたりして、徹底的にそのテクストを自分のものにするのである。

不思議なもので、インプットもアウトプットも無限に可能である。そもそも、インプットとアウトプットは物理的な容れ物の比喩だが、思索や作品の制作は、物理的な容れ物のような限定された容量はない。いや、少なくとも、28年間学び続けてきたが、容れ物に水を入れすぎてこぼれそうになるような具合で学びが容量を超える経験を私はしていない。学びの容量が限られていると思えるのは学び始めの頃だけであると思う。学べば学ぶほど、新たな課題や関心は見つかるであろうし、その都度、当初想定していた容れ物の「容量」の見積もりが間違っていたことに気づくだろう。

ともかく、一度徹底的に結晶化をすることにより、一つの領域が広いのだという考えが相対化され、その領域の内容をきちんと学んだという自負心が育ち、自然と他の学びへと関心が向くようになるのだと思う。

6)

新しい学びに対して開けていなければならないということは、哲学はモラリゼーションを問いで解くところから始まるのかもしれない。何となく「やってはいけない」「考えてはいけない」ことに対してカーンと開けてやってみる。考えてみる。だからと言ってそれに完全に染まりきってしまうのは思索が単なる教義の宣伝に堕してしまう。これまで考えたことのない経験に直面したとき、自分とは関係のない外の世界の事実を発見したと思うのではなく、自分自身の世界の自明に疑問を呈する装置として使用した方がいいと思う。たとえば、衣服を男用・女用に変えてしまえば、子どもは他の子のジェンダーを取り違えるという心理学の研究がある。大人は衣服の裏にジェンダーの本質のようなものがあると思いがちである。この研究者自身も、子どもは「まだ」ジェンダーを学ぶ途中だと言っている。しかし、「まだ」の先で現前する大人の世界が強烈な慣習と歴史によって成り立っているとしても、それに準拠しなければならないと誰かが言っているわけではない。この研究は、大人たちがいかに固まったジェンダーの世界に生きているかを明らかにしていると思う。ある経験について仮に一つの説明方法を見つけても、それによって他の説明方法が妥当性を失うわけではない。一つの経験は、同時に知的な経験であり、物理的経験であり、生物的な経験であり、社会学的な経験であり、心理学的な経験であり、資本主義の搾取の経験であり、現象学的な意味である。一つの見方を見つけたことによって他の見方を捨ててしまうのはあまりにもったいない。

唯一重要なのは、自分自身が、一体どこで何と対決しているかである。自分自身が一体何と対決しているのかは、対決を終えてからでないと知ることはできない。神経質に取扱説明書を読んでばかりいるのではなく、我流で自分が発見した問題の渦中でもがくしかない。昨日も書いた気がするが、思索や技芸は、誰かによって教えられるものではない。自分自身で模索し作り上げていくしかない。理由や承認に惑わされずに野心と熱だけで突進していくしかない。