哲学を勉強するためにオレゴン州にて

留学、アメリカでの生活、哲学、大学院生活、等々。

哲学を学ぶ理由①

サンクスギビング休暇で大学は休みですが、12月初めが期限のレポートが3本あるため、カフェで執筆。哲学を学ぶためにどうして留学したのかを書きたいと思います。

普段、生活する中で、「流されている」という感覚を常に持っています。目の前で何か(嬉しいこと、苦しいこと、不思議なこと、等々)が起こると、その意味がいまいち理解できないのです。

その違和感を持ちながらも、いろいろなことに挑戦してきました。特に学部時代は、音楽、芸術、ボランティア、旅行、留学、宗教、等々、いろいろと首を突っ込んで模索していました。

違和感を解消する方法はいくつかあります。一つ目が、違和感を無視し続けることです。二つ目が、よく分からないままに、目の前に与えられた役割に、ノリで参加し続けることです。ノリで参加することに慣れると、それが当たり前になって、逆に疑問を持つこと自体に疑問を持つようになります。学者のように、知的な性向を持つ人たちの中は、物事の原因を明らかにすることに転じることで「分からなさ」と向き合う人も多いかと思います。

しかし、私にとっては、この違和感は、目まぐるしく動く出来事にどう乗るかという問題でもなければ、その原因を特定して解消する問題でもなければ、誰かの役に立って解消する問題でもないことに気づいたのです。

問題は、自分が流されているということを理解していないことを理解していないことです。理解していないわけですので、何が起こっているのか見当がつかないわけですが、そのことすらも理解していないため、関心が向けられない。このメンタリティが当たり前になると、ノリと気まぐれだけで生活するようになり、何となく浮上する「なんで?」とか「そもそも…」という問いがうやむやになります。

私にとって、少しでもこれが解消すると感じられるのは、調べ物をし、文章を書くときです。私は17歳のときから多様な媒体(ホムペ、mixi、日記、ブログ)で文章を書き続け、その記録も残しています。思えば、こうしてずっと続けてきたこととは、立ち止まって考えを整理することでした。この経験が原点となっていることは間違いありません。しかし、ただ単に書いているだけではいけない。というのも、一言に「書く」とは言っても、書き方がたくさんあるからです。たとえば、事実説明や表現としての文章があります。前者はためになるし、後者は読んでいて楽しい。でも、それらをいくらやってみても、「何か」が深化する感覚がないのです。この違和感に取り組む言論の技術とは一体なんだろうか。そして、その技術は一体どのように身につけられるだろうか。この問いが私を哲学の学びへと仕向けています。

しかし、哲学にも様々な流派があります。この種の問い方を学べる流派や具体例をマッピングするだけでも結構な労力です。と、自分がオレゴン大学で哲学を学ぶ理由を書こうと思いましたが、その前提の一端だけを書くことになってしまいました。書き足りないですが、キリがないので、続きは次回に持ち越し。