哲学を勉強するためにオレゴン州にて

留学、アメリカでの生活、哲学、大学院生活、等々。

セカイ系モデルの思索と、シンポジウムモデルの思索

オレゴン大学では大小様々なシンポジウムが開かれている。これまでいくつか参加してきたが、勉強になっていることがあるので書いておきたい。まず、小さなシンポ(20人くらいしか入らないゼミ室程度の規模)でも、一体この人たちはどこで情報を得ているのかと思うくらい、多様な学部からの参加率が高い。これが分かる理由は、この人たちが質疑応答で積極的に発言するからである。

質問者の質問は真剣である。日本の学会やシンポでは、時間を持たせるための質問、形だけの質問、説教という形の質問、有り難い話を拝聴するための質問等々、が出る印象が強い。しかし、こうしてオレゴン大学内の様々なシンポに参加して感じるのは、ここで飛び交う質問が鋭いということである。言っていることがより正しいとか魅力的だというわけではないが、発表者の研究を足元から突き崩すような質問をズバズバとするのである。たとえば、環境倫理に関わる存在論の研究をしている人が発表を終えたとき、建築学部の人が手を上げて、「哲学者の問いは一体どのように応用できるのですか」と問うていた。その後、哲学の先生が手を上げて、「そもそも存在論に取り組む必要はあるのですか」とも問うていた。この人たちの問いは、検討するに値する主張として現れるため、シンポジウムに緊張感と活気が生まれる。何よりも予定調和感がない。発言の応酬によって、共に未踏の言論空間へと向かっている感覚があるため、結論の見えない未来へと吸い込まれて面白い。

結局、自分自身で研究や思索をするというのは、シンポジウムよろしく、多様な「検討するに値する主張」を問いとして保持して吟味することなのではないか。思索をするとき、どうしても「セカイ系モデル」で一人語りしてしまいがちである。それはそれで一つのスタイルだと思うし、そこから生まれる面白みもあると思う。しかし、「シンポジウムモデル」で様々な主張のぶつかり合いを念頭に思索をする方が合点がいく。思索自体が、様々な人との関わりの中で生まれ、共有される産物だからである。逆説的だが、自分自身のセカイとは全く異なる視座を自分に対して真剣にぶつけることによって、かえって私のセカイは広がると思う。私一人の考えによってセカイの行く末が決まる、決められるという考えは、思想の力を信じすぎだと思うし、他者がいない(何事も私のセカイに引き込んでしまう)点で問題があるようにすら思える。