哲学を勉強するためにオレゴン州にて

留学、アメリカでの生活、哲学、大学院生活、等々。

哲学を学ぶ理由②

釈迦・イエスソクラテス

「分かろうとする」のは西洋哲学の伝統である。釈迦の語録を読んでいると、彼は「分かる」とか「分からない」という問題に拘ることを諌め、その彼岸を指す傾向にある。いや、全身全霊で、「分かるとか分からん」の問題が嘘くさいと悟ることこそが、釈迦の教えを現代に蘇らせる徒(仏教徒?)の努力の肝要な一面だと想像する。

イエス・キリストも、「分かる」とか「分からん」という問題はともかく、それを可能としている世界への畏敬、感謝、そして貢献に力を注ぐことを教えている。やはり、イエスの教えを現代に蘇らせる徒(キリスト教徒?)も、いつまでも理屈を語っているのではなく、全身全霊で、世界と、その地上で苦しむ人々に対する愛を与えることが重要なのだと想像する。

しかし、夏目漱石『行人』の主人公一郎は、こうした教えを頭では理解しつつ、実践できなかった。たとえば、「分かろうとすることの彼岸こそが悟りだ」と言われれば、彼は、「それでは彼岸とは何か」と考えてしまう。西洋哲学の精神は一郎に通ずる態度だと思う。

一般に、西洋哲学の伝統を開始したのはソクラテスだと言われている。彼が具体的に何をしたかと言えば、慣習によってうまく回っている社会において、言論によって、そこで生活する人々が自分の行いを全く分かっていないことを暴露し続けた。しかも、暴露するからと言ってオルタナティブを示すわけではない。ただ単に検討し、自明だった思想を瓦解させる営みに心から真剣に取り組んだだけである。

常識的に言って、ソクラテスは悪者でしかない。なぜなら、この営みは、人々が心の底から大事にしている考えを破壊するからである。さらに悪いことに、アテナイの若者たちの中に、ソクラテスの「教え」に感化される者が現れ、彼の真似をするようになり、それが社会秩序を乱したそうである。アテナイの街はこれを問題視し、ソクラテスを死刑にしてしまう。

釈迦にしろ、イエスにしろ、ソクラテスにしろ、聖人・偉人としての評価はともかく、等身大の一人の人間として、かなりスゴイ人だったと文句なく言えると思う。その証拠に、いずれの例においても、偉大な師匠の教えに強く共鳴した弟子たちがいる。釈迦の語録は現在でも読めるわけだし、新約聖書とは、結局、師匠の言葉を忘れないように努力した弟子たちによる記録である。そして、哲学の伝統が開始した理由とは、ソクラテスの死後、プラトンを始めとした弟子たちが、ソクラテスを主人公にした文学ジャンルを打ち立てたからである。

なぜ哲学なのか

自分自身はどうして哲学に惹かれるのだろうか。それは、「 哲学を学ぶ理由①」で書いたように、「流されている」という感覚を私が持っているからである。これは知的な問題である。私にとって、この問題は、「悟り」によって忘れたり、「愛」によって人を助けたりして何とかなるものではないと思う。

自分の理解によれば、哲学に共通点などがあるとすれば、それは、問い直してはならないことなど何もないことである。師匠に、社会に、神にすらも、反逆して問い続けるのが哲学の魅力である。何となく日々流されたり、単に前例に倣ったりすることを拒否し、自分自身の理屈を信じて摩擦すらも恐れない姿勢は、芯が通っていてかっこいい。

しかし、哲学の書物を読むのが上手な者は多くとも、その態度を持っている者はとても少ない。教会の牧師がセクハラで捕まることがあるのと似ていると思う。自分自身、哲学研究者との飲み会で、宗教論を研究する人が宗教を嗤っているのを見たことがあるし、急進的な哲学を研究する人が、急進的な動向を鼻で笑う様子を見たことがある。とても忙しいのは分かるし、思考を自分自身に戻すのが難しいのも分かる。それにしても、そうした様子は、「問い直してはならないことなど何もない」という哲学の魅力が全くない。むしろ、問うてはならないことばかりで、哲学があまりにも名前負けしている。哲学が自分自身の人生を変えないならば、興味を持っても仕方ないと自分は思う。

アメリカ哲学

自分が19世紀末から20世紀初頭にかけてのアメリカ哲学に興味を持つ理由は、この時期のアメリカの人々が、こうした考えを真剣に取り上げたからである。アメリカ哲学は一般に「プラグマティズム」とまとめられることがあるが、それはアメリカで生まれた哲学のほんの一部に過ぎない。さらに言えば、「プラグマティズム」は、決して「実用主義(うまくいけば何でもアリ・儲かれば何でもアリ」ではない(完全に名前をつけ間違えている)。

プラグマティズムとは、言葉や教えを徹底的に自分自身に引きつけて考えるということであり、それを引き起こした複雑な条件と帰結を明らかにし、賢く選択する追求をする生き方である。現に、プラグマティズムを大成させた哲学者は、最晩年の著作で、このように書いている。

プラグマティズム」という語は、本文中に現れないと思う。誤解を招くからである。その語をめぐる誤解があまりに多く、不毛な議論を生むので、使用しない方が賢明だろう。

この哲学的な態度とは何か。これを提案した人々はこれまでどう考えてきたのか。こうした考えに自分自身はどのように貢献できるか。こういったことに興味がある。さらに最近は、こうした哲学の伝統を、発祥地アメリカから日本へと持ち帰った人々にも目がいくようになってきている。

何を隠そう。自分自身が入学したオレゴン大学は、アメリカ哲学を専門とする先生が、世界で最も揃っている大学である。自分がアメリカに留学した理由はそこに集約される。