哲学を勉強するためにオレゴン州にて

留学、アメリカでの生活、哲学、大学院生活、等々。

多様性に溢れたどうせ死ぬ世界で、人生は生きるに値するか

思想には大抵代表者がいる。仏教は釈迦。キリスト教はイエスマルクス主義マルクス。後進たちは、この代表者の言葉に立ち戻ることによって世界に対する見方を考え直し、それを規準に生き方を形成する。

先日、キリスト教徒の友人がこのように言っていた。「自分一人で物事の捉え方が分かるならば新約聖書など読む必要はない。しかし、自分だけでは分からないから、イエスの言葉を、使徒たちの記録を頼りに学ぶのだ」と。キリスト教徒であるというのは、いわば、イエスが始めたプロジェクトを引き継ぎ、それを現代に生み出すことを意味する。それを守り伝えるのが教会であるわけだが、街角のあの建物は箱に過ぎない。教会とは、プロジェクトを身体に染み込ませた人々そのものなのである。

と、このように、思想は後進と党派を形成する。大抵、脈々と続く思想には、世界を説明する原因と目的があり、後進はそれを学ぶことによって確信を強める。

アメリカ哲学研究者ジョン・マクダーモットによれば、アメリカ哲学の伝統は少し毛色が違う。

アメリカという国は、一応、名目としては、特定の部族・血縁・社会的集団ではなく、協同のプロジェクトによって作られた国である。ホイットマンDemocratic Vistas (1871)やエマソンの著述を読むと分かるが、彼らは、「アメリカ」を、未だ実現され得ぬ、実現されるべき共同体として考えている。現代でも、リチャード・ローティは、Achieving Our Country  (1998)において似たようなプロジェクトを再提唱している。

この伝統では、一つの世界観だけで全てが理解できるという発想を取らない。なぜなら、全く対話不可能な人々が、全く相容れない関心を持って集っているからである。共通しているのは、新しい地で自由の国を作る気概だけである。この雰囲気の中では、一つの世界観を構築することよりも、全く相容れない価値観を持つ人々が、どうしたら共存できるかを考える方が重要なのである。これは、暗黙の揺るがない前提、つまり世界観である。一言で言えば、多元主義。アメリカ哲学の立役者ウィリアム・ジェイムズは、A Pluralistic Universe (1908)で、単一の規準で説明される世界観を批判し、宗教的な世界観として、多元主義を提唱している。

多元主義が暗黙の了解となっている伝統にはどのような特徴があるだろうか。まず、思想のスターが生まれにくい。マルクスヘーゲルも、多様な見方が共存する中での一つの試みに過ぎない。他方、個々人が積極的に「自分の答え」を示して行かないとプロジェクトは崩壊する。そのため、最終的な「答え」を持っている人は誰一人いなくとも、参加者一人ひとりの「答え」が重宝される。

西洋文明(哲学・文学・音楽・芸術、等々)は、壮大な伝統に応答することによって自分自身の位置取りをする伝統である。ドイツで哲学する人は、カントを読み解き、それを乗り越えようとしたヘーゲルを読み解き、ハイデガーを読み解くところから始まる。それを身体に染み込ませていない人は、哲学の正統な参加者とは認められない。

しかし、多元主義的な風土にいると、壮大な伝統とは、協同のプロジェクトを妨げる弊害である。「アメリカの知的独立宣言」として知られるエマソン Nature (1836)はこのように始まる。

我々の時代は懐古的である。父祖たちの墓を組み上げる。伝記や歴史書、批評を書く。かつて人々は、神や自然と直に向き合っていた。だが我々が彼らの目を通してである。どうして我々も自ら世界と関わり合ってはならないだろうか。どうして我々には、伝統からではなく自己洞察によって得られる詩や哲学が、我々への啓示による宗教が、故人の歴史ではないものが、あってはならないだろうか。しばしの間自然に囲まれると、その生命の本流が我々を取り巻いてしみ渡り、そのもたらす力は我々を魅了し、我々に自然の調和した行為をなさしめる。なのにどうして我々は過去の干からびた骨をまさぐったり、今生きている人々を色あせた洋服の仮装行列に加えたりしなくてはならないのだろうか。

 太陽は今日も照り輝く。農地には新たな羊毛と亜麻がある。新しい土地と新しい人間、新しい思想がある。我々は自分自身の努めと法と信仰を追い求めようではないか。 

要約するとこうである。「ヨーロッパの真似事ばかりしているのはつまらない。せっかく新しい土地で生活しているのだから、そこで見たものや聞いたもの、考えたものを大事にしましょう」。

この伝統においては、統一された規準もなければ、自分なりの規準を示しても、誰かに取り合ってもらえるとは限らない。そして、頑張ったからといって成功するとは限らない。この協同のプロジェクトの行く末は常に不安定なのである。

これに対する応答は二通りある。一つが、人間の小ささや無意味を嘆くことである。二つ目が、人間の小ささを自覚するとともに、一人ひとりの参加者の力を信頼することである。世界には決まった構造も目的もないのだから、自分たちで作るしかない、と。アメリカ哲学として名を馳せるのは大抵後者である。

ジェイムズのエッセイ"The Will to Believe" (1896)や"Is Life Worth Living?" (1895)は、それのよい例だと思う。人生に意味はあるかもしれないし、ないかもしれない。意味がある未来に賭けて、そのように生きれば、何かが見つかるかもしれない。もちろん、見つからないかもしれないし、見つかってもどうせ死ぬだけである。しかし、人生に意味などないと予め決めつけて何もしないならば、生きる意味は生まれない。この理屈でジェイムズは言うのである。

人生を恐れてはならない。人生が生きるに値すると信じれば、その信念が事実を創造するだろう。

"Be not afaid of life. Believe that life is worth living and your belief will create the fact"

つまり、今この瞬間の努力に賭けて、その都度の「答え」を示し続けることを選択するわけである。というか、何を選択しても、それは一つの「答え」になっている。だとしたら、敢えて「良くなる方」・「進展する方」の味方をした方がいい、とジェイムズは考える。

この理屈はよく「楽観主義」と言われる。しかし、楽観主義は、楽観するために目の前の問題を軽視する。ジェイムズの選択は、現実を直視するしか選択肢がないことを自覚した上で、自分なりの「答え」を示す努力に転じる点で、荘厳さがあると思う。

この統一感のない伝統を継続するためには、そこに参加する人々が、自分自身と、協同する他者の、経験とその成長の可能性に賭け続けなければならない。だから、アメリカ哲学では、伝統的に、個々人の意見を尊重する「民主主義」が流行り、人間の能力を引き出す「教育」に対する関心が高い。未来に向かうたしかな力を得るために「産業」や「科学」が重視され、それを他者と共有しようとする。

日本で「哲学」と聞いたとき、基本的に想起するのは、「存在」や「真理」について延々と思索するヨーロッパ型のやり方である。アメリカで生まれた伝統は、それとは毛色が少し異なることが分かると思う。