経験としての形而上学

1)

大前提として、2018年ロシアワールドカップでどの国が優勝しようとも、人生を左右する変化はない。ワールドカップは一種の巨大な祭りに過ぎない。にもかかわらず、世界中の人々が関心を持ち、その動向を見守っている。私自身、生活をする中で試合結果が気になり、調べる回数が少なくない。大会の動向が気になるというのはどういうことだろうか。なぜ関心が向くのだろう。

あらゆる人間の活動は一種の演技である。スポーツは分かりやすい例だが、宗教も、思索も、政治も、一種の演技である。演技は嘘ではない。それは、その活動の振興のために修練が必要だということであり、それを披露する祭りが開催されるということである。祭りが他者の関心を引きつければ、その演技に参加する者が増え、演技の形式に関する修練・努力に勤しむ者が増える。ある活動に参加するというのは、その活動に関わる形式を演奏することである。たとえば、 クラシック音楽業界最高の技巧の持ち主たちが東京芸術劇場チャイコフスキーの協奏曲を演奏すると、ヴァイオリンに関心を持つ者が生まれ、楽器屋に売っている木の箱と特定の仕方で関わる方法を教わるようになる。しかし、ヴァイオリンは独学で修得できるほど生易しい楽器ではない。そのため、卓越した形式を再現するために、ヴァイオリンの徒は、最高峰の技巧の持ち主たちの演奏に学んだり、造詣の深い教師に師事したり、成果を披露する共同体に参加したりする。質の高い演奏が人を巻き込み、共同の経験を作ることによって、それを再現し、さらに高い質の経験を作るために、様々な営みが連なるようになるわけである。

同様に、ワールドカップは、まずもって、厳しく繊細な修練・努力を経た者たちが一同に集結し、複雑なコミュニケーションを取る場である。舞台が大きくなればなるほど、技巧の繊細さとダイナミズムを要求される。たとえば、セネガル戦での本田のゴールのダイジェスト映像を見ると、展開が非常に速く、緊張感があり、技術や集中力を欠く者が一人でもいたらゴールは生まれなかったように見える。あの場にサッカー素人が入ったらどうなっていたかを考えれば、あの瞬間、いかに凄みのある出来事が起こっていたのかが想像つく。この種の技巧を実現するために、ヴァイオリニストがその活動を細部に区分けして練習するように(弓の持ち方、左手の位置、ポジション移動、ビブラート、等々)、サッカー選手は細部の技巧(両足での様々なキック、ドリブルの際の触り方、フィールドでのポジショニング、選手とのコミュニケーション、等々)を高めるために練習をしている。ワールドカップとは、それを最も卓越した形式で表現する技巧を有する者たちが、世界中から一箇所に集結し、その技巧が最も優れた人々を明らかにするために対決しているわけである。

2)

ヴァイオリンの凄まじいところは、特定の細かな動作ごとにエチュードが存在するところであり、その最高峰(パガニーニ)は、観客の前で演奏されることである。練習曲が観客の前で演奏されるというのは、サッカーで言えば、ミニゲームに観客がつくようなものである。思うに、細部の技巧を高めるエチュードが多く、様々な段階で熱心に練習する人々を引きつければ引きつけるほど、一つの活動は活気づく。すでに業界に属する者は、その技巧の向上や知名度に関心を寄せるが、究極的に言えば、その業界を保たなければならない理由などない。 音楽であろうと、サッカーであろうと、それに熱心に取り組む理由を説明できるだろうか。無論、心理学的効果・教育的効果・社会学的効果などを明らかにすることはできるが、それは活動を続ける理由ではなく、その活動が生み出す帰結に関する理解である。それでも続ける者がいるのは、理由云々ではなく、細部の技巧を高めるエチュードに取り組むことによって時間的連続性の感覚を得る後進が生まれる続けるためである。身近な次元で言えば、上達するには次にどの練習に取り組めば良いかを想像する者がいる限り、ある一つの活動は衰退しない。逆に、この問いがない活動は、一時的な興奮によって他者の注意を引くことができても、熱が引いたとき、まるで最初から何もなかったかのように衰退する。

しかし、これでもまだ活動の条件について考えているに過ぎない。練習ばかりをして演奏会に出演しないことが倦怠感につながるように、個別のエチュードは何かに昇華しなければ意義は見つからない。思うに、その意義とはat stakeの経験である。at stakeの経験とは、特定の帰結を追求しながらも、努力しなければそれを手に入れられないことであり、好ましい帰結は到達された瞬間にしか分からないことである。特定の帰結を追求するからこそ、参加者は熱心に動向を見守り、そのために手を合わせたり、思い通りにならないときに思わず天を仰いだりする。ワールドカップはat stakeの経験が強い。 その理由は、高度な技巧の持ち主たちが、一つの帰結ー感情移入した観念ーを賭けてぶつかり合っているからであり、その帰結に関心を寄せる他者がたくさんいるからである。at stakeの経験を追求するというのは、普段は関わることのない多様な他者が、共にある方向の未来へと向かっている熱に乗ることなのである。多様な他者が関心を寄せているため、この経験に身を投じることによって、一個人よりも大きな何かに寄与している感覚に襲われるわけである。同時に、ワールドカップには歴史がかかっている。一つの素晴らしいゴールは、サッカー史に語り継がれ、過去を二度と同じように見られなくする力を持つ。日常生活は記録に残しても大きな変化はない。日常生活の関心事は円滑な連続性と維持である。食事、歯磨き、排便などに歴史がかかっているとはどうも考えにくい。しかし、4年に一度の大祭典では、参加者の一挙手一投足が歴史の連続性を断絶させ、未踏の未来を刻んでいる。活動を条件付けるエチュード群の目的とは、意義深い経験をもたらし、それによって、参加する世界の永遠の変化の当事者として直面すること(当事者になれない場合は目の当たりにすること)である。無論、一見、活動はその目的によって積極的な意義が生まれるように思えるが、実際は、参加者が活動を定義する仕方によってその行く末を支配することは全くできない。活動がなければ祭りは生まれないが、祭りが形式として整うと、活動の自由は失われる。

3)

さて、ジェイムズの「信じる意志」における信仰の飛躍には似たような論理がある。ある仮説が1)生きており、2)強いられており、3)その場で何かがかかっているとき、確証がなくとも、仮説に則って行動するに値する、という主張である。この特徴を持った選択の垣根にはat stakeの経験がある。スポーツは明確に一種の祭りとして人間の活動に定義付けられているが、一般には祭りと定義されない活動(人生・恋愛、政治の動向、等々)も、基本的には、このat stakeの感覚を持つことによって意義深い経験を作っている。祭りと祭りでないものの区別とは何か。それは、後者には人間の生命や幸福がかかっているとされることである。たとえば、サッカーでパスミスをしても試合に負けるだけだが、政治の舵取りを間違えると死者が出る。

こうして見るとat stakeの経験には自然と人工の二種があるように見えるが、そうではない。at stakeは全て人間が意識的に作る芸術である。at stakeが感じられない者は、シニシズムニヒリズムに陥るか、疑似的なat stakeを模索する。その内容はともかく、意義深い経験に引き寄せられて多様な他者が集まる事実に変わりはない。変な言い方をすれば、ワールドカップのような巨大な祭りに関心を持てない人は、政治や人生にも関心を持ちづらいように思える。

「信じる意志」における飛躍をすべきかどうかは分からない。しかし、飛躍するに値するat stakeの経験を作るアートを持つことは、自分よりも大きな何かと対決する知的方法を持つことであり、他者を巻き込む力を持つことである。at stakeの経験とは、その帰結が分からないままに巧妙に条件を整えた教育課程である。学校教育では、特定の帰結を担保するために教育課程(一年生、二年生、三年生、等々)が用意される。結果が分からない教育は問題である。一方、at stakeの教育課程は、学校教育と同様に経験を作る条件を丁寧に整備するが、「一年生」から「二年生」に進むために、その都度、競争がある。無論、学校教育にも選抜の厳しい教育課程はあるが、学校教育ではあくまでも失敗の許される。原因と結果の二項対立で考えると、それは何かの原因となるような準備である。だが、ワールドカップのような大祭典は、その都度、関係者全員にとって、それまで培ってきた全てや集約され、結果を求める活躍の場である。それは準備ではなく活躍の場である理由は、やはり、結果が見えない、歴史の一頁に記録される、未踏の何かに関するat stakeの経験があるからである。ワールドカップは、原因を作っているのではなく、原因も結果も分からない、多方向の可能性を作っている。そして、それを導く唯一の方法は、多方向に拡散していた可能性を、振り返ったときに唯一無二の轍になるように、帰結を結実させることである。

4)

誰かが用意した、消費するためだけのat stakeに踊らされて満足できようか。私たちは、真正な課題に関する未踏の未来に向けて歩を進めたいと思う。たとえば、仮に毎年学会という祭りが開催されても、発表者の話を誰も聞かなければ、その祭りは意義を失う。意義を失った祭りは単なる官僚的な手続きの遂行に堕する。単に条件を整えただけでは不十分なのである。また、at stakeの経験の帰結に関心を失った場合も、祭りは意義を失う。しかし、どれほど精密に条件整備をし、at stakeの経験を作ったところで、その動向に関心を寄せるかどうかは、また別の話である。現に私は日本代表の動向に関心を寄せており、敗退を残念に感じるが、全く絶望していない。日常生活に戻るだけである。要するに、at stakeの経験には差別がある。ワールドカップがat stakeの経験をこれほどまでに関心を寄せる事実がいよいよ不思議である。繰り返すように、ワールドカップは対決式の身体技巧の演奏の連続である。仮に大会に優勝したとしても、何かが得られるわけではないのである。どうしてネット上の対戦ゲームで勝つことや、双六で勝つことよりも、ワールドカップに関心を寄せるのだろうか。

哲学的思索の課題はここにある。哲学は、嘘ではない、自らがその創造に関わる、自らよりも大きな何かに関するat stakeの経験の模索する。仕事や税金の支払いに意義を感じない理由は、それが誰かの用意した教育課程であり、それがもたらす帰結に自分が関係ないと思えるからである。いくら一生懸命働いていても、突然「私は一体何をしているのだろう」とふと気づくことがあるのはそのためだと思う。ジェイムズの語彙で言えば、飛躍に値する経験とは何か。それはどこから来るのだろうか。哲学とは、様々な区別や対立の文脈を辿ることによって、その共通の方向性を明らかにし、ヴァーチャル世界とは異なる人間の共通の運命が常にat stakeであることをリマインドする活動である。私たちは、常に「信じる意志」の垣根に立たされていることを思い出させることが哲学である。哲学的に生きるというのは、その事実に忘れずに生き、at stakeにおける賢明な判断に賭け続けることである。

哲学的思索は、ヴァイオリン演奏に無数のエチュードがあるように、細部に区分けされた技巧の群がある。具体的な経験の次元で言えば、哲学的思索とは、ある特定の仕方で「思う」活動である。元来、哲学とは形而上学のことであった。プラトンによる洞窟のアレゴリーがそのモデルである。哲学者は洞窟の外を追求し、そこで眼を慣らした者として洞窟内に戻り、洞窟に眼を慣らした人々と関わるわけである。成熟した哲学者は、外の光を規準にして暗闇の問題を照らすことになるわけだが、その前に、哲学的思索を追求する活動には二方向の運動があることを指摘したい。まず、日常や常識が「暗闇」だという考えを持つためには、「光」を見なければならない。言い換えれば、哲学を求める者は、まずもって、「光」を求めて常識的現実を拒否する経験を持たなければならない。この経験は様々な仕方を行うことができる。たとえば、キリスト教徒としてイエスの教えに従うことで常識を拒否することができる。デカルトの徹底的な懐疑に則って感覚を拒否することもできる。ニーチェの超人思考に身を任せることもできる。

いくら物理的に移動しても「光」は得られない。「光」とは洞察である。拒否から始まる「光」の追求によって、全く異なる仕方で世界に参加する可能性を見るわけである。この思索の運動によって「可能性」に魅了された者は、目の前で見つけたものー「イデア」「神」「精神」「自然」「社会」などーを信奉するようになる。「可能性」の想像力を一つ作って他者に消費させれば、それは、宗教めいているが、一つの「光」を作ったことになる。本当に一つの「光」があり得るかという問いにどのように答えればいいのか分からないが、少なくとも、日常生活の中に嘘や陳腐さが溢れていることを私たちは知っている。そこから「光」を見つける第一段階が拒否であるのは、そうした陳腐さの拒否である。

哲学が制度的な宗教と根本的に異なるのは、それが一つの「光」を絶対視しないことである。ここに、哲学をする際の具体的な特徴が浮き上がってくる。「光」の源泉たる「神」のようなものは、否定しようもなく、概念である。信仰者は言語に還元することを嫌うが、たしかにそれは正しい。しかし、たとえば、「神」と「自然」という2つの包括的な概念を区別するのはあくまでも言葉である。その点、哲学的思索を行う第二段階は、自らが言論をしている事実に気づき、それを扱う技巧を学ぶことである。無論、第一段階がないままに言論の技巧を身につけると、すでに塗り固められた常識を整理して正当化する徒に堕する。さらに、言論があることによって第一段階の追求が明確化する側面も大いにある。要するに、「段階」とは完全に区別されたものではなく、思索を深めるための便宜的な強調点に過ぎない。それでもやはり、「光」の追求と言論という異なる両者を区別し、高める技巧として拘ることが、哲学的思索を成熟させる上では欠かせない。 

5)

「光」を持つというのは、観念を持つことである。自由、愛、死、幸せ。これらは観念である。普段、あまりに当然で考えもしないが、人間は、経験したことを解釈する際、観念を規準として判断を下す。「光」を追求するというのは、観念の世界を開くことなのである。宗教者は特定体系の観念に導かれて人生を有意義に過ごすのに対し、哲学的思索者は、言論によって観念の構造や関係性を理解する。言葉に注目せずに生活していると、ある発想がどこから来たかを考えないが、長年、観念について考えていると、その出どころー少なくとも最も魅力的に表現をした書物などーに辿り着く。たとえば、キリスト教徒は当然のように「原罪」という観念を信じているが、これは聖アウグスティヌスというローマの牧師の聖書解釈に依拠しているそうである。19世紀のマルクス・コント・デュルケームなどの系譜に至るまで、人類には「社会」という観念はなかった。今や教育学において教義的な重要性を帯びている「子ども」も観念である。「自己」という観念が根付いたのは近代哲学が興隆してからである。と、このように、哲学的思索は、観念の世界を開く点で宗教者と変わらないが、特定のものを現実化させることを目的とはせず、むしろ、それの歴史や展望を考えることを使命とする。最も豊かな宗教の始原とは、強烈な教義を提起した指導者が現れることだが、最も豊かな哲学的思索の始原とは、仮に展開の深みがなくとも、考え「方」が多いことである。プラトンの著述が豊かな始原となり続けるのは、そこに教義があるからではなく、ある問いについての思考の方法が豊かに散りばめられているからである。プラトンの著述には、結果や内容はともかく、とにかく思考を試してみて、失敗すれば異なる思考を試してみる態度が読み取れる。プラトンの著述は、「事実」や「答え」を探して読むと特に面白くないが、多様な思考のアプローチを探して読むと非常に面白いことを発見する。さらに、哲学的思索は認知とも異なる。認知は、具体例を積み重ねて帰結を確かなものとすることが目的であるため、事実以上の問題には全く関心を示さない。しかし、哲学的思索は、多くの事実を集めることよりも、一つの事実から考えられる視座の多さ(あるいは一つの視座の鋭さ)に関心を持っている。ともかく、哲学的思索を支えるのは、特定の見解や事実ではなく、事実には還元不可能な観念の経験である。最も「哲学的」であるのは「ティマイオス的豊かさ」のある思索である。『ティマイオス』でのティマイオスのように、特定の問いに対し、何度失敗しても繰り返し異なる思考を試し続け、考え得る思考の方法を網羅してしまうような豊かさである。

この考えに則れば、最も「形而上学的」であるのは、「思う」技巧が最も優れている者である。それは、正しい者でも道徳的な者でもなく、ある瞬間に、「思う」種類・角度・量が多い者である。具体的に言えば、何かの読書・経験をしているとき、常に特定の視座に流されることなく、他の立場から物事真剣に吟味できる者である。さらに、この立場からすれば、「答え」というのは形而上学の死である。形而上学を殺すのは、事実などによって「思う」活動に終止符を打つ科学の方法か、教義によって「思う」幅を狭める宗教の方法か、そもそも「思う」習慣のないコンフォーミズムの方法である。科学者が仮説を立てる能力は「思う」技巧に依拠していることを考えれば、思索は科学に関わっていると言えるが、科学と哲学的思索の文化は異なる次元の活動である。科学者のように思考を道具によって外化し続けると、思考の技巧は減退する。思考の技巧が減退した極限は、ボタニカルアートの展覧会に行って有機体しか見られない種の視座の貧困さである。次に、観念に導かれた宗教者にはテロスがあるため、後進はその確信に惹きつけられる。たとえば、真摯なキリスト教徒の行動には常にテロスがあるように思えるのだが、それは、内省したときの声を神の声として従っているからである。これは言論を信頼する訓練として最適の態度である。気まぐれに声が聞こえる事実が疑いようのない始点になるわけである。観念に導かれた行動は、世界に参加する一つの様式を提供する。世界への参加方法が統一できると安心して行動として効力を発揮できるようになる。しかし、それは「思う」可能性の一つに過ぎない。気まぐれを確信に変えて世界を変えるのが宗教だとしたら、哲学はそれを開始点にまで遡る。全く同じ事実の順番であっても、世界に参加する方法が他にも無数にあることを自覚しているのが哲学的思索である。さらに、哲学的思索からすれば、特定のテロス(行動や構想)に寄与する思索はあまり魅力的ではない。哲学的思索がテロスの持ち主に「寄与」することがあるとすれば、その視座の豊かさを示すことによって、そもそも採用していたテロスを開始点にまで戻すことである。無思考について言うことは特にない。

難しいのは、仮に言論を用いている者でも、「理由」の奴隷になり、多様な観念を享受できないことが非常に多いことである。哲学的思索の始原とは、可能な思考方法の全てであり、それが可能であったことが分かるのは、思考を経た後である。未熟な思索者が、自らは経験していないのに、哲学的思索を追求できるのは、魅力的な範例があるからである。また、哲学的思索に関心を寄せる者は、社会的なものに煩悶しない方がいい。なぜなら、社会的なもので想像力を埋めると、特定の文化的慣習の奴隷になるからである。言い方を変えれば、哲学的思索を豊かな技巧として深化させたければ、考え得る個別の雑音に喜びも失望もしない方がいい。いや、哲学的思索に徹底的に染まると、そうした経験について喜びや失望を経験しなくなる、と言った方がいいだろう。なぜなら、哲学的思索が生き方となった人が関心を寄せるのは、未だ思いついたことのない視座だからである。視座を開拓するのに職業や人種は関係ないのである。