予感の記録と観念を演奏する訓練としての哲学書の読解

1)

哲学的思索とは、観念を持って生きている記録であり、その帰結とは、そうした生き方の称揚と育成である。思索者は、自らもその活動への参加者の一人に過ぎない、言論活動の土壌を豊かにする徒である。今現在活躍し、成長している思索者の成果から学び、称揚しなければ本末転倒である。自他共に関心を寄せる観念とは何か。その条件と内容の明確化・開発に務めるのが使命である。しかし、現在の波はあまりに激しく、刹那的であり、技巧が足りていない。そこで、卓越した先人の知恵を借りる必要性がある。無論、21世紀は伝統が衰退しているため、学ぶべき先人が誰かという問いに対する説得的な答えはない。19世紀では、ドイツではドイツ哲学が、アメリカではアメリカ哲学が脈々と開発された。しかし、今は、アフリカでも日本でも、何でも学ぶことができる。特定の地域や言語圏の権威が意味をなさなくなった中では、卓越性・権威・ポピュラリティなどが規準となる。思索や宗教の伝統は権威を失ったまま形式化し、名前や入門書ばかりが流通し、生きた文化として批判的に継承される様相が捉えにくくなる。複雑な経験によって現実味を帯びていた観念は単なる概念へと堕し、それを学んでも、単に理屈を学んでいるだけになる。

これに対するデューイの答えは、文脈に基づいて探究することであったーー最も知性的な答えである。権威的な伝統がなく、何を選択しても形式的な意義しか持たなくなったとき、唯一信憑性があるのは、自らの経験だからである。自らの生きる世界の文脈において意義ある課題に取り組む以外に選択肢はないようにすら見える。伝統などがあるとすれば、それは、自らの文脈に寄り添って課題に取り組んだ成果が轍となり、似たような文脈で探究する者が現れるということである。しかし、この伝統が開始するのは、あくまでも、後進が、自らの文脈に則って探究をしなければならないと覚悟を持ったときである。その覚悟がないままの場合、その場限りの流行に流される烏合の衆しか生まれない。

さて、デューイの答えには欠けている側面がある。彼自身は、四六時中文章を書き、言論によって他者を触発する知の人であったにもかかわらず、言論を用いる技巧についてあまり書かなかったことである。いくら彼が経験や民主主義について語っていたとしても、彼が、行動の人ではなく、言論の人だという事実を忘れると、いくらその著述を詳細に読解したとしても、デューイ本人のような鋭い思索ができる人材が育たなくなり、後進は縮小再生産される。哲学的思索をするということは、まずもって、問いに引っ張られて言論をする活動だということを忘れてはならない。後進がその技巧を育てずに学ぶを止めると、何となくまかり通る現実に流されるだけになる。そうなると、思索においても、まかり通る観念をむやみに賛美するようになる。特に、デューイのような優れた思索者が自文化に生まれた場合、それを守ることだけに努力を費やすようになってしまう。問いは、特定の学問の技術や業界での地位を得ても身につくものではない。特定の業界内で収まる知的な混乱は、業界自体が内的整合性で動く事実に疑問を呈していない。特定の帰結を称揚する種の思索にも問いはない。特定の内的整合性の中で次なる選択をする策を練ることは、哲学的思索が最も魅力的に結実する問いを忘却することによって可能となる。内的整合性が取れている際、その外についての想像はできないものである。

2)

魅力的な思索の土壌は必ず経験である。その現実感覚を失うと神秘主義者や狂信的な宗教者のようになってしまう。このようになると、他者とのつながりを持つことができなくなる。観念を持って生きるというのは、現実的な出来事に対して観念を照射して評価し続けることである。思索の技巧には、この二方向の運動があることは「経験としての形而上学」ですでに書いた。今回は強調点が若干異なる。

個別を捨象してこその概念だ、と考える者もいるだろうが、私は、概念に意義深さを与えるのは必ず生活圏内の経験だと考える(認知言語論)。「意味」という概念を使うと話は難しくなるが、ここで私が言いたいのは、何かが反応するに値するほどの引力を持っているかどうか、という素朴な感覚である。たとえば、「死」という概念が無意味になることはありえない。人は死ぬからである。小説でも映画でも、人が死ぬという出来事を、様々な角度から描いているところを見ると、そこには、何かしらの引力がある(私たちにとって意義深い)のである。細田守監督の作品は、「家族」「友情」「力強く未来へ進む希望」などの予感を感じる。宮﨑駿監督の作品、「生命」「自然」「人間」「文明」などの予感を感じる。 概念の包摂関係で言えば、こうした映像作品とは、概念を明確化するための具体例である。無論、概念から始めて現実を作り出すことなどできない。概念とは、複雑な経験の連続性の成果である。芸術家が「概念」を表現しようなどと考えたら極めて陳腐なものが出来上がるのは目に見えている。この事実を自覚して哲学的思索をしていたのはアーレントである。彼女は、『精神の生活』の中で全ての哲学的概念は比喩だと言いのけているわけだが、他の著述を見ても、過去の思索者たちが、どのような経験から概念を抽出していたのかをテクストや歴史的文脈から類推しようとしている。たとえば、プラトンが『国家』において他者を支配する理屈を考えるとき、様々な比喩を紹介しているそうである(羊と羊飼い、奴隷と支配者、生徒と教師、家庭)。こうした経験が「国家」の支配を構想する概念を鍛え上げたわけである。 

近代哲学の懐疑の時代が始まったのも、従来、信用の足るものだった感覚や観念の啓示が、実は欺くものなのだと近代科学の興隆によって確かな事実となったからである。文明的な変動によって、それまで疑いようのなかった観念が信じられなくなるわけである。マルクスが理解と行動の地位を逆転させたのも、言葉遊びではない。産業革命が起こったことで、従来、最も下賤なものとして評価されていた「労働」が、世界を変える力だという経験が背景となっている。その点、産業革命以降、思想によって世界を変えようなどと言っている人は、利己主義か独我論に陥っていることになる。さらに、2つの出来事に直面したとき、必然性を感ずる者は、未だ迷信の世界に生きている。マルクスフクヤマによる歴史の結実に関する論はもとより、自由主義者による人類の「進歩」論や、保守主義者による権威の「衰退」論も、その種の迷信である。無論、観念の力を信じるのは素晴らしいことである上、観念の力を信じることによって精神的な棲家を得ることができるわけである。しかし、精神的棲家に永住する者は、思索のそもそもの開始点であった文脈に基づいた思索を捨てている。最も真摯な哲学的思索者とは、常に自らの観念を厳しく吟味しつつ、それが新たな出来事や文脈によって破壊させられる事実に立ち向かう。それこそが、「経験の意味を考える」ことになるからである。その点、哲学的思索者は、自らの精神的土壌からあぶれた観念の萌芽たる予感の記録をする必要がある。たとえば、デューイによれば、「民主主義」という概念は、原因も結果も未知である、権威だけでまかり通る社会に対する反感(という予感)に基づいた人々が協同で新たな共同体を作り続けた社会運動の成果である。その概念は、運動の特徴を明確化し、より効果的にするための後づけの道具に過ぎなかったのである。逆に言えば、概念や過去を道具にして現在の動向を正当化しようとする者たちは、全て転倒を引き起こしている。概念の次元で共鳴する人々は、正義の徒として自己満足が得られ、何かに「寄与」している感覚を持つことができるが、そもそも関心を持たない者は、説得や強制をしても、自ら動く意志が育たない。あくまでも、予感を自ら育てる意志が生きている風土が先立つのである(それは成果なのだが)。

3)

哲学的思索は、まさに観念を自らの経験から作り上げる意志を称揚する活動である。それは「生きる意味」である。「この世界で正しく生きる」である。「平和を追求する」である。最も問題のある態度は、事実を軽視することである。事実を認め、そこから生じる問題を認め、その上で、「これらの問題は我々全員に非がある」などと全員の問題にすることで、誰にも責任がないかのように振る舞うこと。この観念はシニシズムを育てるだけである。我々はそういう世界の中で生きている。つまり、出来事に連続性がなく、目指す方向もなく、魅力的な文化は衰退の一途を辿り、非人間的な論理で進展するように見える動向を傍観するだけであり、帰結の名の下に観念の下劣な者が勝ち上がり、物事を判断する世界である。そういう世界での慰めとは、ゴミ拾いをすることで「環境問題」に「寄与」する活動であり、「民主主義」の名の下に、若者がほとんどいない市民の集まりで、先の短い老人の戯言や愚痴を聞くことであり、自慰行為と酒で時間を潰すことであり、恋愛に精を出すことであり、市場に供給されるゲーム・書物・趣味に没頭することである。

哲学的思索は、他者に与えられた、手垢のついた観念に甘んじない。教義的な観念を解きほぐし、それがどこから来たのかを追求し、どこに行くのかを構想する。それが「経験の意味を問う」ことである。これは、法律家のように、他者と言論を交わすとき、話し手が愚か者に見えるよう他者の論点の短所の重箱をつついても実現されない。哲学的思索は、あくまでも観念の世界を豊かに開くことが目的であるので、あまりに闘争的な者による洞察を殺すような言論や、観念を消失させる種類の行動の人とは相容れない。そうではなく、他者の観念から何か学ぶことができるかもしれない、という解釈的な態度によって新たな観念は生まれる。言論を職業にしている者であっても、この態度で思索をしている者は極めて少ないのだが。

さて、哲学的思索をする際、観念が冷凍された書物を読むことになるかもしれない。そうしたとき、書物を消費してはならない。キリスト教徒が聖書を読んで「神」が記憶に宿ることで、日常生活において自覚的に「神」とともにあることができるように、哲学書は、生活の中で思い出せるほどに明確に記憶に留めるように読むべきである。いわば、観念の書物(哲学書)の読み方とは、クラシック音楽の楽譜のように、消費せず、追想することによって、演奏する訓練をすることである哲学書を読むとき、書物を開く度に、書物に刻みつけられた観念を最初から演奏し直さなければならないのである。真摯なキリスト教徒には地上で生きる目的があるように、哲学的思索をする者は、観念を持っている。しかし、哲学的思索においては、究極的答えは死を意味する。哲学は、ある一点から多様な方向へと広がることのできる度合によって豊かさが決まる。偉大な哲学的思索が後進にとって立ち戻るべき始原となるのはそのためである。