10月28日2018年

哲学とは哲学をやめとうとすること。デカルトマルクスキルケゴール、カルナップ、ハイデガー、オースティン、エマソンなどがその態度を持っていたとカヴェル。逆に、哲学を始めようとした人もいる。デューイがその好例である。いずれにせよ、哲学を終えた後の思索、あるいは哲学の準備の思索は、一体何なのかがよく分からない未踏の思索である。「アメリカの学者」でエマソンは、思考をしている人は未だいないことを示唆する。神学や哲学体系はすでに完成された世界に居住するが、この前後に留まることを余儀なくされる人々は、帰結の分からぬ言葉を生み出し続けるしかなくなる。これは、主流の思考に対しては気まぐれであり、そこから広がる洞察に自信を持てるならば予感である。結局、思索の目的は、未だ訪れぬ偉大な思索の準備をすることなのかもしれない。その目的は細分化される。たとえば、ウィトゲンシュタインの『哲学探究』は規則や理解に関する気まぐれを引き起こす装置であり、答えは出ない。ハイデガーの後期の著述は思考の準備である。デューイの著述は「人間の諸問題」に取り組む思索者が生まれる準備である。

しかし、カヴェルはオースティンとウィトゲンシュタインの思索を継承することをそれでも考えていた。アーレントは自身をドイツ観念論の伝統の中にあると自称している。デューイはジェイムズやパースによく言及している。思索者は、結局、こうして共鳴する思索者を、意識的にしろ無意識的にしろ、継承しながら考えざるを得ないのかもしれない。

本当に私は一体何がしたいのだろう。そう考えざるを得ない。そろそろ模索の方向性を変えていかないと全く何も生み出すことのない思索者になってしまいそうである。 NW Reading Group for AMが昨日あった。脳科学の見地からアメリカ哲学の系譜の正当性を伝える二人による発表であった。Jは、20世紀中盤の古いダンスをアートの範例と見ているようだった。なぜ脳科学は古典的プラグマティズムを継承する上であまり魅力的ではないのだろう。それは私にとって重要な問いであり続けた。その答えは、おそらく、脳科学は私の経験に対する帰結を何も与えないからである。彼らの分析や主張をどれほど繰り返したところで、議論が終わったとき、結局、始めたところと同じ地点に帰着するのである。つまり、デューイの経験哲学を売るための効果はあっても、その思想をすでに好意的に捉える者にその思索を深化させる効用はないのである。今現在、自分なりに答えを出せば次に進むことができるような問いとは何か。それに全力で取り組み、そして次に進むしかないのは分かるのだが、それを他者に説明できるように明晰な思考の持ち主では自分がないことにいつも苛立ちを覚える。