10月30日2018年

一人の思索者がその思索において考えている主題はおどろくほど少ない。ジョンソンの主題はもうよく分かった。彼は信仰の人である。キリスト教の信仰が揺らいだとき、カントを発見し、その後デューイを発見したのである。彼は理性の力をそれでも信じているため、分析哲学や科学に傾倒するのである。彼の思索内容は現代的な共鳴が少ないように思える理由は、彼が随分昔から引きずる個人的な考えと対決しているからである。言い換えれば、彼は異なる立場の者とおそらくあまり対話していない。リクールの元で学びながらその系譜について言及しない、あるいは捨ててしまったのは問題である。彼は自らの思索の可能性を限定してしまっている。

私は「未だ私は思考をしていない」という強迫観念に未だ囚われている。文章を読んでも全く理解できない。ゼミで参加者が流暢に議論する姿に羨ましさすら感じる。しかし、私が思考をしたい理由は、世界を理解したいからではない。未踏の思考を発見したいからである。その観念的な営みが妄想にならないように、私は、せめて言葉の使い方だけでもきちんと地に足をつけたいのである。私が過度にテクストに基づいて喋ったり、文章を残したりするのはおそらくそのためである。

しかし、未踏の思考とは言っても、単に自分自身にとって新しいということではないのだと思う。なぜなら、最近、大陸哲学のポエム合戦に我慢ならないからである。この会話は、伝統を体得することによって特定の言論の仕方を身につける流儀であることは認めるが、その流儀自体に何の魅力も感じないのである。ポスト構造主義者を名乗る者が雄弁によく分からない概念で会話をする様子は、私が最も嫌いだったある状況を想起すらする。すなわち、サラリーマンが「社会の現実」なるものを振りかざして時勢について雄弁に老婆心で語る状況である。サラリーマンの言うところの「社会の現実」は、自称ポスト構造主義者の言うところの「ラディカル」である。図書館で育った哲学的青年がこの党派に染まると、何だか突然ラディカルを自称し、わけの分からない概念を多用し、それがあたかも世の中との関わりがほかの言論よりもあるかのように言い出す。

ハイデガーの著述は未踏の思索を称揚しているために学ぶ余地がある。しかし、彼は、前経験的な領域だけに留まっている。近代批判としての「状況」はあるのだが。私が求める未踏は、逃れようもなく目の前の状況の中で発見される。だからと言って、思索をやめてしまう種類の未踏に意義を感じない。ハイデガーよりも視野が狭いと言われればそうなのかもしれない。仮にハイデガーが哲学の伝統を引き連れているならば、私はもう哲学に関心はないのである。

私は何に魅力を感じるだろうか。魅力的なテクストと共に、それを指針として人生を再考し、生きる人々の共同体である。その点、キリスト教会で聖書読解の伝統が生きていたり、マルクスの著述から生活を再考していたりする人々がいるのはとても魅力的だと思う。しかし、こういう人々は思索の始原が限定されているのである。21世紀の私たちの世界で、テクストを再構築して、それと共に生きる仕方はないのだろうか。

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成熟すると自らを超える魅力的な思索と体験ができなくなる。