10月31日2018年

少なくともデューイやハイデガーの思索に共通するのは、両者とも共通感覚における概念を急進的に再考しているため、常識の範囲内でまかり通る概念が消滅しているところである。具体的に言えば、たとえば、両者とも「自己」や「対象」なるものを想定していない。こうした概念が当然のように流布する生活圏内の思考においては、『経験と自然』や『存在と時間』は曖昧だと退けられても仕方ない。しかし、哲学書の読解が思考の訓練だとすれば、こうした著述を読み解くことによって「自己」や「対象」についての見方が一変するかもしれない。思索は常識の諸意味の組み合わせでできているのだろうが、思索は常識に従属する必要はないはずである。仮に、書店で購入する小説や漫画が、その質や内容にかかわらず、「薬」や「趣味」の効用をもたらす機能だとしたら、哲学や文学は、量では測れない唯一の出来事である。そこに予め想定された効用や機能があっては思索としては質が低いと言わざるをえない。良質な哲学や文学に直面することは、たとえ機能的には同一の「効用」であったとしても、同一だとは言い難い。軽食でハンバーガーを食べてもホットドッグを食べても似たような経験に見えるが、中世の賛美歌を鑑賞するのとバロック時代の音楽を聞くのではわけが違うように。これが「似たような経験」になっているのだとしたら問題は根深い。私に関心があるのは、量では測れない唯一の経験としての芸術に直面した人々が、一体どのような、量では測れない唯一の経験を産み出すかである。インプットもアウトプットも「薬」や「趣味」では片付けられないのである。