11月1日2018年

あからさまな敵を見つけてそれを批判・非難したり、陳腐な論点を正当化したりすることは、思索の特徴と相入れない。敵や主張を持つことは、すでに伝えられる次元のゲームに参加することである。大学で先行研究の整理ばかりをしている官僚もその種の人間である。そうした人々が出版社に媚びを売って出版した本を買って、本が好きだとか哲学が好きだと私は言いたくない。思索は目の前の状況に感化されているのは間違いないが、思索が何かに寄与しなければならないことはないのである。思索の魅力とは、政治や噂話の動向で人が右に左に流れている中、どんとその渦中に座って勝手に言論するところにある。流れの真ん中にいる者たちを動かすのは次の流行だけであり、それ故にあらゆる技巧は縮小再生産される。死すらも誘うような優れた文学はこのご時世には売れない。「安心した生活」を揺るがすような高く険しい文章も書店の「文学・思想」の棚にカテゴリ化される。動向に流されることが「現実的」ならば、思索者は「非現実的」にならなければならない。

小説的思索。科学的思索。詩的思索。哲学的思索。その思索内容はともかくとして、文章執筆が人生の一部となっている者は、それが高く厳しい技芸である自負を持たなければならないのかもしれない。芸術家がその表現内容に自負心を持っているように。しかし、「言論は大事だ」と繰り返しても、目を持ち見ない人々、耳を持ち聞かない人々には一切届かない。それを生かしてつなげる責任を自らの使命だと自負する者は、空洞に向かって叫んでいるに過ぎない。思索の文化に必要なのは圧倒的な範例である。全く無責任な、爆発的な意志のある若者が、誰に言われるともなく下から勝手に思索を産み出し続ける運動。未だ結晶化せぬ偉大な物書きはどこにいるのか。