11月9日2018年

メモ。

デューイの論理学において「在る(is)」とは在り方が変容するということである。たとえば、「花は赤い(The flower is red)」という命題は、「花が赤くなる(The flower reddens)」という意味である。具体的なイメージで言えば、様々な豊かな相互作用において、私が「花」に直面したとき、「赤」が生起する、という感じである。種から芽が出ることで物事の在り方が根本的に変容ように、「赤」とはこの世界の在り方の変容なのである。パースの「The New List of Categories」においては、「is」は基体(substance)の述部を作る(predicate)するための論理的な機能に過ぎない。しかし、パースの基体は、未だ区別されぬ、動きゆく「それ(that)」である。「在る」とは、躍動する経験の一側面を思考において論理化した成果である。その点、デューイとパースは共鳴する。ハイデガーにとって「在る」とは、在り方が固定されることである。その固定を嫌ったために彼は「在る」以前の、しかし「在る」へと流れ込む領域を想定して思索をしたわけである。

デューイにとって「私は人間である」という言葉は、特定の文化・文脈で成り立っている言葉を指針とした継続した変容の「在り方」の成果を示す。彼の課題は、その都度の現状における、変容の様態を停滞させる在り方の批評である。それを問い直すのも一種の在り方となる。ハイデガーにとっては、この言葉は、存在に関する問いを一切忘れた者による問いの不在を知らせるだけである。

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優れた思索者の文章の特徴とは何か。整合性と明快性とは異なる何かを読み取れるところである。それは事実の問題でもなければ、扱う主題の問題でもない。そして、あらゆる芸術と同様に、それは高く厳しい鍛錬の末にようやく感じ取れるものである。しかし、それが身体の一部になったからと言って、優れた人間になれるわけでも、役に立つ人間になれるわけでもない。それが論か詩かと言われたら、どちらかと言えば詩に近いだろう。論は言葉の躍動を閉じることが多いからである。だからと言って、単に詩だと言い切ってもいけない。その辺で読む詩の中には、単なるセンチメンタリズムや陳腐な平仮名の羅列に過ぎないことも少なくない。優れた哲学書が読者に与えるのはその類のものではないのである。思索者の文章が読者に与えるのは、字面で現れる形式や結論とは異なる次元のものであり、テクストと全身全霊をかけて格闘したあとに自覚するものである。それが始まるのは、少なくとも、形式や内容、事実と虚偽、主題や方法、前提や結論を度返ししたときである。

端的に言えば、それは主張内容ではなく、思索の仕方である。読書の仕方の類型から考察したい。たとえば、次のような読書の仕方がある。道具:ある主題や問題について議論するためのテクスト。分析:主張・論理的関係性・構造などをつかむためのテクスト。歴史:起源・歴史・文脈を明らかにするためのテクスト。解釈:個別と全体の関係性を明らかにしたり、どのような問いを開くかを吟味したり、その内実に潜む偏見を明らかにしたりするためのテクスト。批判:社会的・政治的・経済的条件に対する間違い・偏見・無知を指摘するためのテクスト。脱構築:そこに含まれていない意味を探すためのテクスト。心理:執筆者の心理を読み取るためのテクスト。記号論:字や記号の機能や意味を明らかにするためのテクスト。教義:唯一の解答を導き出すためのテクスト。

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思索のテロスは未踏の洞察を発見することだけである。すべての思索はそのために行われる。

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結局、従来哲学と呼ばれていた営みは、読書の仕方と書き方を学ぶ営みであり、新たな楽器の弾き方を学ぶようなものである。同時代人とともに哲学書追想する営みとは、一緒にエチュードを弾くようなものである。

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優れた思索は独特の音色を持つ。それはムードと言うこともできる。大抵、客観性を重視する種類の文章は、まさにムードを殺して匿名の明快性を獲得することを目的とする。しかし、ここでの考察の視点から見れば、明快性すらも一種のムードなのである。明快であることと、それが社会の中で好まれているからといって、思索においてそのムードを採用しなければならない所以はどこにもないのである。 

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ムードが生きている文章を読むと、二度と同じように考えられなくなるわけだが、大抵、それは拒否から始まる。

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具体性における不在。西部弘幸。固有名詞の前に具体的な他者を現象界において想定しがちだが、そこには圧倒的な不在がある。その不在故にそれを知らしめる記号Aで代替することもできるが、その具体的な不在を保持することによって、テクストへの直面に形式性がなくなる。

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詩のイメージは洞察のイメージと似た特徴がある。難解な詩を読み解くとそこには、言葉では説明しきれない整合性がある。躍動する円や線。摩擦。ねじれや広がり。それを動かす具体的な安置。

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思索の入り口。詩情が予感させる、見ることも触ることもできない口づての言葉をつくる。詩情が開くとき、思索の気分を合わせて、その領域に向かって圧倒的に問い続ける。その領域をつくって言葉をつくる練習。

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何が言われていないのか。

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自分の思索が面白くなるためだけに学べばいい。テクストに自らの調子、気分を合わせる。

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最もメタな問いについても、それが何かを理解したと言い切ることはできない。最も大きなカテゴリを想定して語り始めた途端、何かが失われるためである。大きなカテゴリについて語ろうとするすべてのテクストは、その点でほかの何かの規準にするのは難しい。自分たちは、常に、何について話をしているのかをわかっていないことになる。テクストや思考はすべての文脈で異なるため、同一性は、機能の領域以上に持つことはできなく、それぞれの中からどのように生まれるかを待つしかない。

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書くというのは、閉じられた思索から逃れた一瞬の記録である。それを書き記すことによって、その記録が一種の方向性となる。

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精神の活動において躍動を予感させる音色。それを意志と呼ぼうか。最もあからさまなのは、未踏の未来に向かう運動と、現在をラディカルに否定する運動である。若い精神や未熟な精神にはこうしたあからさまな精神の音色は気持ちがいいのかもしれない。しかし、これらの躍動の種類があまりに単線的である。単線的な躍動は精神の自由を得るための入門にはなろうが、思索の技芸を高めた者は洞察を追求する。洞察とは、精神の躍動が醸し出す躍動を生かしたままに複雑に絡み合い、未踏の模様や音色を表現することである。

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徹底的な拒否の先に爽やかな立ち位置。