11月10日2018年

理解とは結局カテゴリに記号の関係性を還元することであるように見える。同一性、多様性、変化、連続、因果、否定、可能、必然、等々。「カミュの主張」とは何かと問うて「不条理」と答える。それは具体的に「意味の追求」と「無関心な世界」との摩擦だと説明する。

ある有名な記号論の研究者は、記号論とは人間が使いうる記号の種類を研究する学だと言い、哲学史とは、記号論の発展だったのだと結論づける。そうなのかもしれない。そして、よく思考をしたい者は記号の使い方をきちんと学ぶべきである。しかし、思索の活動は、本当に、記号の種類と使い方を覚えて、その近似値に実感を還元する営みなのだろうか。何だか息苦しさを感じる。

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「きみがしていることは哲学ではない」。そういうものが哲学だというのなら、私は哲学をしたいと一切思わない。私が追求したいのは自分自身にとって面白い思索だけである。記号の使い方についてよく学び、思索の躍動についてよく学んだ後、早々とその業界から去りたいと考える。