11月27日2018年

「洞察」は形而上学的である。以前は思索とは洞察を追求するための準備作業だと考えていた。現在でも「洞察的なもの」を感じることはある。しかし、「洞察的なもの」は単に自身によるこれまでの思索の習慣が変遷する始点を発見したときに過ぎない。新しい洞察は洞察でないものの対である点で縛られている。思索が始まるというのは、文章がうまくなるとか、未踏の洞察を言い当てるといった準備作業とは異なる。言葉を連ねることによって織りなす運動自体に留まる感性を養わなければならない。