気分と調律(1)

Ah, we lived so freely in inwardly infinite life,

Unconcerned and in silence, a blessed dream ourselves,

Now sufficient unto ourselves, now flying into the vastness,

But always alive and at one in our innermost core.

Happy tree! How long, how long I could still sing

And lose myself in the sight of your trembling crown.

But look! Something's afoot, the virgins in veils are strolling,

And, who knows, my girl may be among them;

Let me go, let me go, I've got to--farewell! I'm thrown into life

That with childlike steps I might follow the charming trace,

But you, benevolent one, you I'll never forget;

You're eternal, the image of my most beloved.

Holderlin

 

思えば、思索は人生の矛盾と向き合うために行われている。「思索と文化」や「日記」における思索の自己信頼宣言ののち、「想像力に関する省察」・「『左翼的なもの』の発見」・「『思う』ことがひとつの倫理となること」などにおいてその領域を深化させる方法を模索した。思索は人生と切り離すことができないので固定された方法はない。それは人生の変遷の過程においてその都度工夫されなければならない。「意志、芸術、思索」においては、思索の豊かさとは「思う」視座や量が多いことだと書き、それが人生と結びついたとき、唯一思考可能な原理があるという点に帰着した。この原理は、狭く限定された命題というよりも、消化できない土壌のようなものである。神秘的な気質を持つ者はそれを愛と呼び、社会に関心を向ける者はそれを繁栄と呼び、不平等に憤る者はそれを革命と呼ぶ。文脈によって語彙を変えるが、思索の運動において、それはあくまでも一つの成熟の形である。この思索の成熟は、他者の意見・宗教・哲学に対して順応することを徹底的に拒否した暁の長年の努力の成果である。それは職人技と同様に一種の芸術であるため、誰しもが体得できるというわけではない。しかし、当人にとっては、当初から同じことを考えていた自覚として結実し、それが原理に対する確信を与える。

未熟な思索者はそれでも無限概念を提起することができ、成熟した者と類することを言い張ることができる。むしろ、思索が未熟な者に限って、概念に逃げ込むことによって党派を形成する傾向があり、逆に、原理を成熟させた者は党派争いを嫌う傾向にある。そのため、思索の成熟の困難とは、誰が真摯な思索の成熟の途上にあるかを外から判断できないところである。思索が真摯に行われているかどうかを確認できるのは、結局、自分自身のみであり、それにもかかわらず、それが正しいかどうかは分かりはしない。そして、思索の原理を主張すると、それは矮小化される。そのため、思索の成熟における直観を育てることは困難であり、育てたとしても、成熟しないまま党派に収まる者の政治に覆い隠されることは日常的である。精神と呼ぶに値するのは、その都度の目に見えぬ生命力ある運動のことであり、記憶の問題になり得ない。要するに、思索の技巧と豊かさは、それ自体の変遷と研鑽以上の目的を持ち得ないのである。思索の成熟の旅路は人に見せびらかすものでなければ、複雑な成果を残したからと言って優れているわけではない。

しかし、仮に無視・誤解されようが、思索内容の残滓はそのまま記録される。思索内容が無視・誤解されているという認識があるのはまだ幸運である。最も不運なのは、吟味のなされないうちにそうした偏見によって消化されてしまうことである。優れた思索は常に誤解され、矮小化されていると言えよう。言い方を変えれば、優れた残滓とは、どう読解してもまとめきることができないほどに視座や表現が一つの文章群に結晶化された作品である。他者の思索を解説する種類の言論人において優れている証とは、その思索が持つ消化不可能な豊かさを示すことであり、同時に、そこには書かれていない、ほかにあり得た思索の可能性を示してやれる技巧である。

経験は確信を造って思考を閉じる傾向にある一方、思索は確信の下へと向かう運動である。思索が過多になった暁に到達するのは、確信の消失であり、思索の連続においては洞察の消失である。結局、音楽家が音楽を造っている一方で思索者は何を造っているのだろうか。それは、知的なエクササイズを繰り返すことによる、確信と洞察の消失である。それは真摯な相対化の練習であり、自己批判の旅であり、懐疑主義シニシズムの発見である。未熟な思索者は、理想を収集することによって、成熟しても当初から同じことを考えていたと確信を深めていく。思索が豊かに始まるためにはこの未熟な思索ー収集・結晶化して表現することーが必ず必要である。「思索と文化」や「日記」はまさに洞察の一瞬を造るための理想を収集であった。しかし、「意志、芸術、思索」においては、収集活動をして別の世界に触れるような経験が飽和状態になったとき、一種のプラグマティズムに転じる以外に道筋はないと書いた。私はそれを「形而上学的栄養」を吸収してその都度方向性を確認することだとも書いた。

しかし、「一種のプラグマティズム」は、思索における「唯一の原理」を忘れると堕する。思索は、他者に褒めてもらったり、認めてもらうためのものではない。それはあくまでも自己自身との対峙であり、自らの思考を明らかにするための研鑽作業である。それは、ヴァイオリニストが一つの技巧を身につくまで何度も反復することで体得する訓練と似ている。一つの考えを何度もめぐらせ続け、体得することによって、それを自ら演奏できるようになるのである。「一種のプラグマティズム」に転じることで自己批判の側面が削がれ、他者との関係性における帰結のみを求めるようになると、芸術としての思索は自らを見失う。思索が養う一種の知的な直観が鈍る、と言ってもいいかもしれない。ヴァイオリニストが一日練習しないことによって指先の感覚や調律の狂いに気づきにくくなるように、思索も、自己批判の側面を失うと原理性が失われ、それと同時に原理を得たと思い込む。この原理は、一つの原理でありながら、名指した途端に政治的道具に堕すものである。

大抵、自分自身にとって生きた考えを反復していると、それが夢に出てきたり、朝起きたときにその次の考えが勝手に思い浮かんでいたりする。思索活動は、その都度、エチュードに過ぎないわけである。それについて考え続けていると、自分自身は異なる事柄について考えていたつもりでも、後々になってそこにテーマ性があったことを気づくものである。それは、考え始めた途端に分岐し、連続性を見出しにくくなる、言葉を媒介することによって最もよく自覚できる一貫性である。しかし、たとえば、岩波書店の書棚に定期的に行くと、そもそも関心の的となる本が時期によって変遷していたり、昔読んだ優れた本を再読すると異なる点が気になったりするように、よく観察すると、その一貫性自体が変化していることに気づくものでもある。「それ」を吟味するのが思索である。この営みに全く関心を示さない者もおり、最初に飛びついた一貫性を塗り固めることで安心感を得る者もいるが、そうした他者はこの種の吟味とは関係がないので、何を言っても応じる必要はない。また、社会科学の歴史を見れば、一人の思想は社会化の成果だというのは紛れもない事実だが、誰しもが環境によって社会化されている事実は、思索をしてはいけない理由にはならないだけでなく、仮に理由になると言い張る者がいたとしても、真に受ける必要はない。というのも、そもそも、この営みの目的は自らの思想性を自覚し表現するところにあるわけだが、他者の理由や意見とその動向によって思索を中止するというのは、まさにその追求と逆行する。他者に書く種類のあらゆる文章はその類の箇条書きであり、それは、思索における一貫性を伝達するために削ぎ落とした、平板化の賜物である。思索は、そうしたことを気にせず、他者が見たら単なる乱雑な覚え書きに見えるような繰り返しや自動書記のように、ただ文章を書き続けていればいいのである。その営みがいつか他者に認められるというのは一種のコンフォーミズムであり、その営みが、他者の機嫌をうかがって生きている人よりも崇高だということもない。そもそも、自己との対峙のために言葉を尽くす営みを継続することによって、変化する、見えない一貫性を表現することができる事実に気づくためには、すでにある程度の言葉の使い手にならなければならない。他者の助言は、安心できる方向性を得る契機になり得ようが、最終的な帰着点は、今現在成り立っている権威と伝統に成り代わることである。原理的に言って、思索の目的は権威や伝統とは関係がない。次の思索に向かう転機や、優れた思索とは何かという問いに対する答えは、自ら選択することはできない。思索は、その一貫性を、自らの納得の行く様式で結晶化させることによって自覚することのみが目的である。今現在の、自己や他者において再帰する思索内容を拒否する唯一の方法は、それをより深く吟味することである。端的に言えば、ここで考えてみたいのは、自己との対峙を緩めることのない種類の思索の方法である。栄養を吸収する有機体の比喩で理解される種類の思索は自己批判を忘れる傾向にある。しかし、対峙を緩めることなく結晶化を続けると、当初の一貫性に無自覚に順応しない種類の直観が育つ。

思索においてその営みを続けると、ある程度成熟した果てに、何を語っても、それと拮抗する矛盾を同時に想起する思索の習慣が育つ。何を考えようと思っても、それよりも豊かで深い思索内容を自ら考えられてしまうのである。それを改めて表現すると時間がかかるのでしないのだが、直観的にその豊かさが分かり、それにおいては、自らの語ろうとすることの矛盾を痛感してしまう。そうなると、何を語ろうと、語り始めた途端に間違っていることとなり、話し始める言葉に詰まるようになる。にもかかわらず、長い時間と労力をかけて培った直観において考え続けたい点は変わらない。その、言葉にした途端に想起されるがそれ自体を考えることのできない語りの土壌、何を語っても「それ」とは言えない、全体になりきらない全体をここでは原理と呼ぶわけである。原理の一端を感じ取った思索者は、今度は、それを見失わないように、その原理の方から考え、明確化する思索を模索する。それをする唯一の方法は、結局、自分自身の持ちうる素材の中から、これ以上考えられないと思うほどに考え尽くすしか見当たらない。そうすることによって、思索者の限界をあぶり出しつつ、それでも原理を矮小化しないような思索を試みるわけである。

繰り返すように、この知的なエクササイズに他者は関係ない。無論、記憶に残る、有意義なあらゆる経験は他者との関係の中で起こるものである。結局、一人旅をしても、記憶に残っているのは、独りで電車に乗った経験でもなければ、一人で思索をした経験でもない。他者とともに直面するこの世界の出来事である。思索をするに値するのは、そうした他者と共に参加する世界についてである。だが、ここで強調したいのは、そうした経験を思索する段になると、他者が念頭に顕れた途端、思索の技芸が軽視される。それはヴァイオリニストがエチュードを練習する際に市場で街の人の意見を聞かないことと似ている。どう現実味を帯びるように思索を工夫しても、それは言葉の列以外の何物でもない。思索がそれ以上の何かであるように偽りたい考えは、結局、思索における対峙が緩い証なのである。あらゆる党派は党派と対立することができるため、思索は党派によって退けられるが、思索においては党派の意見は陳腐以外の何物でもない。また、優れた思索をする者(研究者・物書き)に実際に出会ったとき、単なる等身大の人間で失望することは少なくない。他者との交流において納得させる演技は、思索において自らと対峙する営みとは別次元なのである。言葉や自己の統一性を信じる者は多く、たとえば、思索と政治、話し言葉と書き言葉、思想と行動などが統合されていることを美徳とする傾向が非常に強いが、それは、自明の意見ではなく、吟味されるべき課題、一つの思索の成果であるはずである。そうして思索をほかの営みに従属させることを留保すると、それはあらゆる領域において自らを正当化する術を失う。特に、話し言葉を失ったとき、思索は、単なる一つの弱小党派として議論に終始負け続けるか、病理として「治癒」 される。