気分と調律(2)

To the Young Poets

Dear brother! It matures, perhaps, our art,

Since the same young men have been long fermenting,

To silence the beauty soon;

Just be devout like the ancient Greeks were!

 

Love the gods and think of mortals kindly!

Detest intoxication like the frost! Do not teach or describe!

If the master frightens you,

Ask great nature for advice.

Holderlin

 

思索は自らとの対峙において考えられていない精神の運動を拒否するため、あらゆる世界観・意見・文法・事実・理論に順応することがない。応用の可能性もなければ、ポピュラリティの可能性もあり得ない。大抵の共鳴者は思索が分からぬか無自覚に行う九官鳥に過ぎない。思索を無自覚に行うことは洗脳や訓練の類だが、自覚的に行うことは哲学的である。それは、たくさん語ったからよいというわけではなく、語れたと思うと止まるものでありながら、成熟した思索者はシンプルに語る。思索は言葉を使うため、概念の理解がなければ効果的に行うことはできないが、思索の目的は整然と概念を並べることではない。

この思索を困難にするのは、原理の直観が必ず不慮の発見だというところである。原理から考える思索は自らの思索の営みであるにもかかわらず、それを自らのものとして所持・提起すると、追求しているものの真逆を手に入れることになるのである。さらに、不慮の直観と同時に反省が始まったとき、そこから生まれるあらゆる区別はすでに原理の矮小化である。強いていえば、この原理は個別の思索の始原のことである。その残留物は、綿密でダイナミックに凝縮され過ぎているために、捉えるべく肉薄した途端にすり抜けていくような記念碑となる。それは、事実や命題の次元において寄与することはできないが、思索者にとって無限の背景となる。それを成熟させるのは、独りで静かに思索をする営み以外にありえない。他者から見れば、教義的、あるいは神秘主義に嵌ったように見えるに違いない。たしかに、この思索が最も魅力的に成熟した成果は、秘密宗教のようになるはずである。というのも、結果的に始原的な役割を果たすようになる思索は、波及した途端に誤解や勝手な解釈によって薄められるため、公共性や平等性とは程遠い産物であり、それを共有できるのは、同様に厳しい思索を経た数人だけである。意義や「役に立つ」言説が圧倒的に浸透している世界においては、その営みを続ける者はほとんどいないに違いない。いたとしても出会って活発に交流する可能性は少ないだろう。

この記述だけを見るととんでもないことを書いているようだが、そうではない。たとえば、クラシックヴァイオリンのトッププロが、クラシック音楽を受容する文化の完全に死んでいる土地で音楽をする際、演奏において妥協しない限り、音楽の素養のない人々を無視せざるを得ない様相と似ている。あるいは、音楽大学を目指す若きヴァイオリニストは同級生の音楽談義や練習には参加せず、厳しい教師の下で黙々とエチュードをこなすようなものである。音楽大学に進学することがとんでもない選択に見えないのは、それが進路選択として認知されているからである。その認知がない思索活動の場合、談義や練習に参加せず、黙々とエチュードをこなす姿への非難は免れ得ない。さらに、思索活動は、クラシック音楽のようにジャンルや伝統が明確ではないため、一体誰が教師なのかも分からず、どれがエチュードのエクササイズなのかも分からない。思索には一応文学史哲学史の厚い伝統があるが、原理的に言って、思索活動はそこに順応しなければならない所以はない。最も厳しい思索においては、誰にもー自分にもー認められないため、全く無意味で方向性のない戯言の連続として棄却されるのみである。どこまで他者の非難に耐え、自己批判を厳しく行うかは思索者の裁量によるのかもしれない。

しかし、ヴァイオリンを始める若者が、上達の度合について、街の演奏会で演奏できればいいと最初から妥協しても仕方がないように、思索者も、最初から妥協する度合について考えても仕方ない。思索は、厳しく行えば行うほど、自らの思索内容に納得ができなくなり、対峙が薄くなればなるほど、納得の度合が深まるものである。まず、自らの思索がいかに陳腐かを自覚できるように、学び続け、書き続けるしかない。大抵、自らの思索がどこかで誰かが考えた枠内に収まっていることに気づくだろう。他者の考えた枠に収まっているということは、思索が未だ始まっていないという意味である。自らの思索が未だ始まってないことに気づくためにも、ある程度の思索の経験が必要なのはこのためである。

思索が上達してくると無駄を省くようになる。無論、音楽家が無駄な音を敢えて挿入して装飾とする技巧があるように、思索においても、無駄を挿入することが納得の行く思索を造る一助となることもありうる。しかし、無駄による遊びは、無駄を無駄だと自覚できるようになってからでいいだろう。思索における疑似個性に納得するよりも、自らの思索内容を削る技巧こそ、対峙の始点であり、思索の変化を生み出すきっかけだからである。

思索の源泉に忠実にあろうとする者は固有名詞にこだわるようになり、それらの意味を捉えようとする者は抽象概念にこだわるようになる。前者の臨界点はプルースト、ウルフ、ソローのような思索者であり、後者の臨界点は哲学史の面々である。どちらの方が優れているということはありえない。前者は思索の状況や感覚をきちんと言葉にする特徴があり、後者はそれを要約して明晰な言葉にする特徴がある。前者のない後者は状況に鈍感な、空虚な言葉を発する官僚となり、後者のない前者は、事実や状況を比較したり、意味づけたりすることのできない書記官のようになる。

思索における始原的な記念碑について語る場合、後者の方向性をとらざるを得ない。最も生産的に後者を行うのは理解の職人たちである。理解とは、言葉や記号においてこれ以上ないという抽象概念に意義深さの感覚を還元する営みである。たとえば、基体(存在するもの)、性質、量、関係、運動、場、行為、統一、多様性、肯定、否定、原因、共同、可能性、必然などが考えられる。何かを理解するというのは、こうした、特定の状況に左右されないが一定の特徴を共有するものを単位とし、説明することである。現に、こうしたカテゴリ群の理解が変化すると、何を持って理解したかが変化する。そして、どのような枠を採用して思索を進めるかによって、思索者が直面する問題も変化する。たとえば、二つの区別から始めると、それをどのように統一すべきかという問題に直面する。具体的には、根源的な二つの区別は、精神と身体、個人と社会、個性と画一性、子どもと大人などである。リアリティがあるようにこうした概念が組まれると、片方だけについて膨大な思索を行う者が現れ、それと対立する対をどのように扱えばいいのか分からなくなってしまう。たしかに、個人とは何かについて30年間考えた暁に哲学理論を構想したとき、二元論の構図で考えている場合、社会とは何かという問題について語らざるを得なくなるだろう。あるいは、目的に達する条件を構想すると、条件の領域に収まるあらゆる内容は常に条件内に収まることになる。 これを長年行っていると、それでは条件内に収まることのない超越をどのように考えるかという問題が生まれる。端的に言えば、理解の枠を造った途端、そこにすべてを還元することなどできないため、あぶれた事象はどうなるのかという使い古された擬似問題に陥ることになるのである。

原理から思索をするという問題に関しても同様のことが言える。二元論を想定してから考えると、思索とは何かを明らかにした途端、原理は思索そのものとは対であるということになり、到達し得ない原理性に思索がいかに肉薄するかという問題が生じる。人間が「ものそれ自体」を理解できないという問題は、その種類の問題であるように思われる。条件を想定してから考えると、様々な条件を経たあとにどのように原理へと到達するかという問題に直面する。具体的に言えば、原理性から思索するためのステップをいくつも想定し、そのステップを辿れば原理に到達できると説くとする。これはいわば将棋や囲碁の段位や、宗教の儀式における個々人の役割のようなもので、中枢に近づけば近づくほど、その競技の確信に迫っているという感覚を与える。しかし、原理性は、その定義上、条件付けとは相入れない。結局、将棋や囲碁で最強になるステップなどなく、宗教において神を発見する方法などないように、思索において原理から考える条件などないのである。それは原理の理解の一助にはなっても、そこに頼っても始原的な思索へと成熟するわけではない。言い換えれば、理解をする種類の思索は、動いているものを静止して地面に落とすことはできても、運動を引き起こして開くことはできない。無論、理解の枠を用いないことには原理について考えることができないため、たとえば、原理を忘れないために、神・絶対無・無底・出来事・第一原理・普遍などの無限概念ーそれ以上のあらゆる規定がそれを背景としたその矮小化であるような、単なる純粋な絶対性ーをリマインダーとして想定したり、幾何学や論理などの普遍的な形式を方法として想定したりする。あらゆる思索内容が一種の答えだとしたら、原理的な思索が追求するのは問いである。思索に使命などがあるとしたら、答えを問いの次元に引き戻すことであり、簡単に答えに惑わされなくなることである。その点、思索は、思想や信条を足すものではなく、道具にもなりえない。それができるのは、注意散漫や偏見を取り除き続ける知的な訓練における感性の成熟への追求である。

しかし、繰り返すように、言葉を尽くす営みは、その特質上、原理から考えることができない。原理が意義を持つのは原理が自らによって自らを動かすときのみであるにもかかわらず。教育において大人によって与えられた条件内で活躍する子どもが、必ずしも野生の環境の中で生き残る強い子どもではない様相とも似ているかもしれない。条件内から野生で生き残る子どもの成長を考えるのではなく、野生から子どもの成長を考えなければ、条件に飼い殺された大人が育つだけである。

原理においては、スピノザにおける神の様態modeのように個別の発現はしない。原理を神と呼べることは大変便利であった。神を原理とすることによって、それが反駁不可能だということが思索以前に伝わり、その言葉が畏怖の対象となるからである。しかし、神という語に対してリアリティを感じない人々においては、それを神と呼んだところで、それは、ある文化圏で社会化されたこと、その人に知的吟味に関心がないことなどを露呈するくらいしか効果はない。しかし、検討に関心を持つ思索者も、結局、その都度言葉の列を造っているという以外のことをしていないことも否定し難く、言葉を並べたところで原理に関する直観が強くなるとも限らない。おいしい食事をしたことがあるからおいしい料理を求めたり、過去に政治的好転を経験したから政治の堕落を嘆くことができるように、この原理も経験が先立つのである。経験のない原理の記述は、結局、他者の経験の九官鳥となることである。その点、神秘主義は、原理の直観を深化させることにおいては最も豊かな源泉である。

無論、思索の目的は、原理の直観であって、意味不明な言葉の列を生み出すことではないため、思索は特権的な地位はないのだが、それを捨ててしまうと、原理も消え失せる。原理は、個別の表現において呼び起こされ、継承される以外に直観される方法はない。原理は、そういう意味において、自らを顕現させるために思索者に頼らざるをえないのである。それでもやはり、そうした思索は原理を覆い隠す。原理から考える試みにおいては、それを開始すべく言葉を語った途端、見当違いであることが明らかになり、開始しなければ直観を発見することができないという構図がある。この、包括という言葉でも包括され得ない包括を語りたく、語った途端にその個別具体が包括と矛盾するために、次の瞬間、改めて最初から語り直さなければならない思索について、シェリングは、内なる会話の技巧、哲学者の真の神秘、「弁証法」として形式化されない次元における弁証法の唯一の形だとしている。要するに、論理化する以前の生ける精神の運動としては、これこそが哲学者が研鑽すべき技巧だと言っているわけである。無論、原理を直観すること自体が一つの成果であるため、この運動が始まるという簡単な一点を考えるためにも、長きに渡る思索の蓄積が示唆される。その運動が始まること自体がすでに成果なのだが、その始まりが何の成果かと言えば、気まぐれや予感から結晶化される矛盾や、折衷し得なさ、消化不可能性を経験した成果だとしか言いようがないのだが、かと言って、形式的に矛盾を指摘したり、むやみに否定をすればいいというわけでもない。端的に言えば、思索が始まったことを自覚できることは、すでに原理を矮小化したのちの反転と忘却が起こった後だということである。これを無視することによって矛盾を解消することもできるが、それは、思索の成熟においては、病理に関する専門的な解決策を用いることによってそれを悪化させるものである。思索の始点は常に思索そのものよりも深く肥沃な土壌であり、その都度そこから考える試みを改めて始めなければならない。

この運動を始めようとするとき、明確な一点を想定することはできないが、少なくとも稼働し続ける力はある。それは、原理から考えようとする精神の力である。100度になると水が氷になったり、石ころを手から離すと地面が落ちたりするように、精神は動く。原理から思索をする運動に力を与えるのは、そうした精神の力強いエネルギーである。物理法則においては石ころと同じ法則で動く精神ではあろうが、それを研鑽することによって機微を与えたり、重厚感を与えたり、明晰さを与えたりすることができる。身体の柔軟性や人間関係と一緒で、その技巧は、使えば使うほど活発になり、使わなければ単に衰退の一途を辿る。少なくとも、思索のエチュードにおいては、精神の運動を活発にするように工夫する必要がある。それは、ラディカルに「左翼的なもの」を追求することなのだが、単にそれを続けるのではなく、その土壌が原理に関する直観を育てるように行うことである。「始原から考えようとする」と書くと、あたかもそれが最初からどこかにあるように考えがちだが、精神の活動が何ら神秘的なものではないとすると、そこで行われる運動自体が手段であり目的であることになる。そして、その運動の模索自体が一つの探究の種類となる。この種類の模索を何と呼べばいいだろうか。少なくとも、整然とした思考以前(あるいは以後なのだろうか)にすでに判断がされているのである。あらゆる瞬間の精神の動きがすでに判断の諸相となっているのである。判断とは、あれこれ考えたあとに行われるものではなく、精神が原理へと向かおうとする運動のことである。究極的に言えば、思索のエクササイズは、このエネルギーを育てるものである。憧れ・信仰心・内部から湧き出る熱狂・カオス・宇宙。それをどのように名付ければいいのかは分からないが、それは、最初に訪れて説くものというよりも、エクササイズと経験を通じて培うものである。そして、エクササイズはただ自分自身のためにあり、その思索は誰にも見せず、吟味によって変遷する自らによる哲学書・宗教書として再読するしかない。だが、求めることによってしか始まらないにもかかわらず、求めることはすべての成果である。思索は、知識としてうまくまとまるものではなく、「使える」・「役に立つ」ものではない。その都度、個別性において、原理から考えようと実演することしかできず、演技から出てきた断片を拾い集めて同じことを繰り返すしかない。そして、小さな一瞬において、アニメーターが上手に雲を描けただけでしばらく満足して過ごすように、一つの優れた思索ができたことでしばらく満足しているしかない。

これを聞いて、「なんだ、結局普遍性などないではないか」と失望してはいけない。何においても、個々人が最も大きなものの守り手になることに変わりはない。人類の功績を伝える歴史家にしたって、その題材の壮大さにかかわらず、それが体現されるのは、それを調べ、言葉に乗せた一人の言葉である。一人の歴史家が、自らのうちに人類の功績がエネルギーを持って生きていないならば、人類の歴史という個々人を超えた題材そのものも衰退の一途を辿る。歴史家が「人類史」のモニュメントであるように、学者は「理解」のモニュメントであり、小説家や脚本家は「物語」のモニュメントであり、法律家は「法律」のモニュメントであり、ビジネスパーソンは産業のモニュメントである。思索者とは、こうした流れにおいては、単に、一種「神的なもの」のモニュメントであるに過ぎない。その言葉を「理解」と対置すれば詩のモニュメントであり、個人に換言すれば詩情のモニュメントである。それは、「理解」を捨て去ると神秘主義となり、社会状況との関わりで語ると社会的理想のモニュメントとなり、未だ実現しない社会との関わりで語ると改革や革命のモニュメントとなる。

この試みは、事実の名の下に精神の活動を犠牲にしない点において、観念論的である。しかし、この試みには「神」や精神界のような領域が想定されていない。これは、単に、言葉を発する者による豊かさを求めたこだわりである。それでも、あらゆる形式以前の、思考不可能でありながら一つである原理を支点に思索を進めようとする。(1)思考し得ぬ第一原理から始まり、(2)それが形式において枠付けられ、(3)思考が一つ生まれる。ほとんどの言葉の使い手は(2)と(3)の次元だけで思考が行われる。この試みが立ち戻るべき思索の始原として育てるのは、すでに成り立っている形式以前から考えようとする気分である。この試みにおいて語ろうとしていることは語ることができない。何を語っても自己批判の前に瓦解する。その意味において、この試みは、思索をそもそも成り立たせる元へと立ち戻る直観を造る態度を育てている。この種の思索の関心事は、思索内容に関する与件を収集をすることではなく、原理の方から思索をする気分を造るためのイメージの断片を収集することである。思索内容を収集すれば、明確な知識として説明することができるかもしれない。しかし、思索を生み出す気分造る断片を収集すれば、それは、育てれば育てるほど、さらに豊かに生み出す始原となるはずである。だが、それが現実的なモニュメントとなればなるほど、後進はそれが思索の成果であることを忘れ、社会や世界に関するヴィジョンだと考える。そのヴィジョンは実効的な効力を持つことによって党派へと成長するが、その限りにおいて、思索の成熟は縮小再生産されていく。

思索を形成する気分をどのように養うかを考えなければならない。普通、あらゆる種類の表現に直面したとき、鑑賞者は自らが習慣化した背景によって意味や意義を予見・予想し、それに順応する形で解釈を形成する。過去の経験と習慣を使わなければ知的な営みを継続することはできない事実に変わりはないが、それに固執することの問題点とは、不慮の直面や新しいものを拒否する可能性があることである。そもそも、思索の試みは、今現在思考可能な事柄の外の、より広く肥沃な源泉へと向かおうとする営みである。その一点以外に何もないと言ってもいいかもしれない。その種の思索においては、習慣によって予想できるあらゆる思索の成果はつまらない。魅力的な思索とは、過去の経験や方法論的な枠によって一読しただけでは理解不能でありながら、そこに沈潜することによって、二度と同じように考えられなくなる記念碑である。それは、人間が書いた本なのだが、それを意義づけるのは、その都度状況に応じて人間が感情移入する状況における題材である。思索者は、感情移入しているものを結晶化した理解に変えたり、感情移入の原因や条件を明らかにしたりする。気分は、ハイデガーのように、今現在感情移入可能なあらゆる現出の裏に求めることもできるが、より身近に、身近な生活や社会の動向において求めることもできる。ハイデガーのテクストから気分を形成する人もいれば、社会変動が生み出す消費社会の孤独について雑誌や映画から気分を形成する人もいるだろう。思索者の思索が一読しただけでは理解できない理由は、当初、テクストにおいて読み取れるのは、読者の偏見だけだからである。新しさを不慮に発見する方法は、テクストに関するほかの曖昧な観点ー場、本のどの辺にあるか、語の選択の違いーが身体の一部となるほどに浸透させるように読み込むことである。予想不能な新しさとは、そもそもが野生の豊かさを持つ土壌に生息することによる予感のような気まぐれである。「気まぐれ」と言うと、個人的な意味が想起されるが、共通の、単一の気まぐれ(理解)に還元できない土壌における「気まぐれ」は、少なくとも、多少の始原性を持つ。

始原的な思索のこのような特徴を鑑みると、一つの方向に思索が収束することなどありえないことが分かる。思索は必ず多様であり、何物にも還元し得ない。言葉を使う営みには単一の正解があるだとか、特定の手段や目的に還元すべきだと考えるあらゆる思索には問題があることになる。そこには、言葉を使う営みにおける重要な何かが欠けている。何が欠けているのだろうか。それは、狭く閉じた何かに囚われているのである。鎖によってがんじがらめになっている。思索を行う者に自負心・尊厳のようなものがあるとしたら、それは、何物にも従属しない自由においてである。思索が完成したと自負する者はその途端、創造主であることをため、思索内容に従属する奴隷になる。思索は、完成や土台を持つ夢に対抗しているのかもしれない。その点では、対抗などと言っている時点で思索者も一種の奴隷なのかもしれない。しかし、特定の見方や方法を持つことで満足したり、他者を真似したり、権威に従属したりすることで、他者を非難する者のいかに多いことか。それを徹底的に拒否し、消化不能な思索の土壌において自由に思索でないというならば、思索者の使命とは一体何だろうか。思索は知識にはなりえない。役に立つものでもない。思索は自由への働きそのものである。その一つ一つは、自らによる創造であり、普遍的な思索などありえない。思索は、具体的な思索者だけの営みであり、賜物である。思索がその航路によって他者に伝えるものがあるとしたら、その自由を求める情熱だけなのかもしれない。具体的な思索が構想した体系や概念群を信奉することは、小説や大河ドラマを信奉するようなものである。抽象的な物語を信奉するのは抽象性にのみ感情移入する種類のアニミズムである。いずれにせよ、こうした種類の思索には、自ら思索を試みる運動が一切ない。その人がたとえどのような立派な言葉を発したとしても、それは、体系に飲み込まれた匿名の個人による無意識の自動である。そこには、意識や意図も、自由への情熱もない。

思索は、無限に創造的な営みであり、その成熟を確かめられるのは、その航路における変遷の豊かさにおいてである。自己との対峙が薄いことによって、振り返ったときに変化が見られなかった場合、自らの精神と言葉によって思索を行う技巧がその間に養われなかったということである。存在という語にかこつけて言えば、思索者の存在論は、理論化することなどできないはずである。存在とは、外も内も、常に変化する新たな発現の連続のはずであり、それを生み出すために絶えざる制約の破壊のはずである。その運動において安定や帰着というのは、思索の死を意味する。思索において教育的な目的があるとしたら、それは個々人が自らを超克し、より肥沃な思索を造ること、 自らの考えから自らを自由にすること以外にありえない。