気分と調律(3)

Warning to the Reader

Dear reader, with good intentions I do not wish to hide from you what has been earnestly shown to me. If you are still in the vanity of the flesh, and if you are not in earnest resolution on the way to new birth intending to become another man, leave the above words in the prayer unsaid or they will be the judgement of God in you. You are not to misuse the Name of God. Be rightly warned. These words belong to the thirsty soul, but if it is in earnest it will experience what they are.

Jacob Boeme

 

成熟した思索で主流なのは理解の職人になることである。理解は、結局、それがどれほどな優れた方法や体系へと完成しようと、否定の効用しかない。どうして異なるのか、どうしていけないのかを明らかにできても、肯定はできない。理解は、他者に与えられた題材を整然と並べ直す営みであるために題材の外に関心を示さない。思索が求める自由は、その運動自体が発現する題材であり、原理の表現であり演技である。原理から考えるとは、要するに、計画や方法論がなく、未踏の領域において予想不能な言葉を語ることである。理解などの否定的な営みは、経験から始め、それを題材として抽象性を導き出す。あらゆる種類の科学的な営みはこの種の否定的思考である。しかし、思索は、「そこ」から経験を求められるように、無条件、区別以前の圧倒的な豊かさの起源を求める。その豊かさから思索できる者は、思想や哲学を持って経験を枠付けることをせず、その豊かさにおいて、世界に圧倒的に積極的に参加する。否定の思索しかできない者が、自らの経験内容や、他者が経験を形式化した言葉の範疇でしか世界に参加できないのに対し、自ら発現し続ける豊かさが思索できる者は、収束することのない、参加すればするほど豊かさの増す、結論や帰結はないが始原である、圧倒的に安定した、不安定な運動を表現することになる。無論、否定的な思索を無視すると神秘主義そのものであるので、否定による制約を自覚しなければならないが、その制約は思索内容におけるタブーを造ることとはわけが違う。思索に取り組む誰しもが、その豊かさにおいて、それぞれ、自らの航路において考えることしかできなく、それをする度合が強ければ強いほど、原理的な思索は生命力を増す。キリスト教徒が何を経験しても神を引き合いに出しながら感服するように、原理から思索する者は、意識と努力のすべてを原理から、そして原理のために生活する。語弊があるので付け足しておくと、原理とは、単一の規準において何事も行うということではなく、考えた途端に理解の範疇からあぶれるような、しかし豊かな思索を行う者が共通して身につけているような、未だ現出し得ぬ潜在性から考えるような気分である。生命力ある意志や精神の躍動は状況に応じた単発の運動であり、まとめようがないのだが、そうした、その場限りの躍動を単なる偶然や気の迷いとして個々で見るのではなく、思索において、自らが起源ではない、語ることのできない一種の一貫性として、何度も語り直すことにより、育てようというものである。

この種の思索は、自由を求める思索と経験が先立つ。これが感覚的に分かる者は宗教に入信して終了である。しかし、それが分からぬ者、それを宗教だけに明け渡すことに疑問を感じる者は、それを言葉にすることを試みるわけである。単に経験をすればいいというわけではなさそうだが、経験が思索を造ることは間違いない。思索を好む物書きは、理屈や描写を複雑に編み込み過ぎ、思索と行動が結果的に乖離することが少なくない。そのときに思い出したいのは、行動原理はシンプルでいいということである。あまりに複雑に考えてから行動をしようとすると、反射的に世界に出ていくことができなくなる。鶴見俊輔の次の言葉に共鳴する。「あんまり複雑に全部の状態をからめるように構造をつくっちゃうと、ぺたーって坐りこんで生きるみたいになっちゃってね。そうじゃなく、身を起したいという気持ちがある」。素朴な原理や線引をして行動するというのは、現実の複雑さを忘れてしまうこととは異なる。行動をすることによって、思索で明らかにした矛盾や複雑さを引き受け、思索をさらに深化させるきっかけを造るのである。考え抜かなければ行動ができないのであれば、大抵の者は一生行動などできないはずである。無論、中途半端に動き続けることが自明の者においては、止まる技巧を育てた方がいい。要するに、動き続ける者は止まることを学び、止まり続けることによって動けなくなった者は素朴な発想から動くことを学ぶ、という点に落ち着く。ただ、この思索の文脈においては、思索について考えるため、それを中座するときのことを考えざるを得ないというだけである。どちらかが優位だということはなく、これは単に、状況や必要に応じて思索者が自らの課題を見出す種類のものである。

しかし、この思索の文脈に立ち戻れば、関心の的となるのは、いかに思索するかという点である。最初に直面する種類の思索が、新聞や新書の類だけの者は、それだけが物差しとなり、原理からの思索を戯言だと感じるだろう。精神における言葉にならない区別を感受しようとするような思索は極めて少ない。永遠とは、何度立ち戻っても消化不可能な作品群のことである。思索においてそうした、永遠の性質を持つのは、一読しただけでは消化し切れない種類の書物である。そうしたテクストは時間の制約を超え、思索者の栄養になり続ける。キリスト教徒にとっては、二世紀に渡り、聖書がその種のテクストとしての地位を保っている。原理的な思考の守り手であり推進者である思索者は、先行する過去のそうした思索を掘り起こして学ぶ必要がある。無論、先行する思索は自らとの対峙ではないので、そうした思索を参照しつつ、自らの置かれた状況において語り直さなければならない。というのも、優れた思索に直面したとき、その思索のスケールの大きさに辟易とし、そのスケールを持たない自分自身はその思索の解説者になろう、とへりくだる者は多い。しかし、仮に難解な思索を平明な言葉で解説する技巧が育ったとしても、繰り返すように、理解の技巧は否定的な効用しかない。それよりも、そうした思索と自ら対峙しながら生活することによって、自らの精神を冬眠から叩き起こした方がいい。先人の思索と向き合ったとき、何を考えるかは自分自身で思いつくとしても、一つの優れた範例として、そこからいかに考えるかを学ぶことはできるだろう。それは、題材として教えられるものではなく、自ら追想することによって経験しなければならない。

昔は、多くの者にとって、それぞれの育った土地において、そうしたテクストが生きていたのかもしれないが、私の場合はそうは言えなかった。聖書も『法華経』もネット上でダウンロードでき、まるで趣味のように空き時間に学ぶことができ、それを推進する団体も見つけられる。しかし、そうした優れたテクストと共に考えて生きる者と出会うことは極めて稀であり、そもそも、そうしたテクストを特定することすらも難しい。大抵の生ける教師は、当人すらも思索が成熟しておらず、自信がなく、偽善を教えるか、「自ら考えてほしい」という願いから条件整備のために否定の思索を教えるのみである。優れたテクストを通じ、自由を教える教師はほとんどいない。自由から考え、自由を表現する教師は、他者や自らの文章にではなく、その精神に自由が焼き付けられ、還元し得ぬ、止まらぬエネルギーが誰よりも強くほとばしり、それが各瞬間に世界へと放射されている。それこそが、最も形而上学的な人の特徴である。「意志、思索、芸術」ですでに書いたように、最も形而上学的であるのは、その瞬間に「思う」量が多く、視座が豊かな者である。とすると、模索すべきは、視座が豊かに散りばめられたテクストであり、それと共に生きながら、思索の自由な成長を追求している者である。

ちなみに、テクストを読解し、それについて書くことのみに満足すると、「思う」量はかえって少なくなり、結局、精神の運動において他者とつながることができなくなる。あくまでも原理から思索をする独りの営みを止めないという前提においてだが、やはり「思う」人々との関係とその力に希望を持たざるをえない。読者がいないのであれば、造るしかない。話を聞いてくれる人がいないのであれば、自ら動くしかない。真の意味での精神的な友、哲学的同士、愛する他者が生まれるのは、応用や行動に寄与しないはずの思索が、他者との関係を結ぶ紐帯となるときである。そのときに初めて孤独な思索はこの世界に発現し、その成果は実を結ぶ。それと同時に思索は縮小再生産を始めるのだが。

思索の発現を体系的に追求することを学問と呼び、それを行う場を大学と呼ぶとする。この観点から言えば、学問は、官僚的な理解の牙城でなければ、就職のための文章産業でもない。それが魅力的であるのは、原理において豊かで技巧に富んだ他人が協同するからである。否定しようがないのは、魅力的な学問は、そうした態度、気概、気風、人格のようなものに支えられているということである。学問に尊厳があるとしたら、分からぬ者に譲り渡すことのできない技巧と、思索においては納得のできない他者であってもその原理性においては尊敬する他者との、相入れないが協同する言論への信頼である。その文化が死ぬから学問は官僚のつまらぬ牙城になるのである。

学業、科学、政治、医療、教育、倫理など、人間の営みには無数の側面がある。具体的な対象を持たない思索者は何をすべきだろう。思索が経験領域を包括する法則を醸成できるという自負は傲慢以外の何物でもない。繰り返すように、思索は、その営みそれ自体の外に目的を持たない。つまり、より高い原理を求めて吟味し、それによって自己が相対化され、もう一度最初から考えてみるという以外に奥義を持っていない。思索を広めるというのは、その営みに他者を巻き込むことにほかならない。他者がこの営みに参加するというのは、単に話を聞いてくれるということではなく、自己批判と変革のために自ら読解・執筆に向かうことである。思索が持つ独特の後ろ向きの回転を感覚的に体得し、それを加速・深化させるべく探究をする者は、すでに共に思索に参加している。改めて語弊のある言い方をすれば、たとえば、キリスト教において言われる、そもそも種の芽吹かない不毛の地しか持たない他者には何を言っても響くことはなく、自ら求める者にこそ扉が開かれるのだとする論理と似ている。これは決して神秘的な話ではない。単に、学ぶ意欲のない者には何を言い聞かせても無駄だというだけである。パースの「論理学の第一規則」の言葉を借りれば、論理(つまり、考えること)の唯一の第一規則は、学びたいと欲することであり、満足しないことだとしている。仮に世界を救済するような探究成果があっても、それに直面する他者に学ぶ意欲がない場合、何もしなかったのと同じなのである。要するに、思索における自己との対峙に関しても、どう工夫してもその営みに関心を示さない者はいるということである。そうした人々について気を揉んでも仕方ないのみならず、説得すれば分かってくれるはずだと思うことすら一種の傲慢だと感じる。

しかし、それはシニカルに後退すべきだ、とか、身内だけで交流していればいいということではない。この種の、始めなければ魅力が分からない、分からなければ始められない、という営みは、身内の外に出ていかないと、縮小再生産するだけである。というのも、身内による他者への働きかけがない場合、こうした営みは、外から見れば、理解不能でであり、自ら始めることができないからである。これは思索に限ったことではない。学業一般もそうであるし、スポーツや音楽も似たような論理を持っている。外野にいる限り、その営みの魅力は分からないものである。しかし、スポーツや音楽においては、外野でも楽しめる見せ物を提示しやすい(試合や演奏会)のに対し、思索における自己との対峙は、楽しいものとして見せるのは難しい。たとえば、哲学書の読書会を開催したとしても、それに魅力を感じる者は比較的少なく、思索者の感じるところの「楽しさ」に達するまで相対的に時間がかかる。スポーツや音楽も、実のところ、同じだと思うのだが、人がわいわいと集まってショーを楽しむ側面が強い点で、当事者だけが分かる「楽しさ」が伝わらなくとも、外野は楽しく過ごせるのではないか。

それでも、外野が、思索者が自己と対峙し続けた成果に直面したとき、最低限、受け取ることができるものは何か。それは、探究対象が未だ消化しきれていないことに関するリマインダーではないか。経験は多様な形で現出する。それらは、その一つ一つが固有の現出でありながら、思索における唯一の原理が育てる直観からすれば、原理から滑り落ちた一面的な成果である。往々にして、経験が深化した大人は、そこから生み出された原理を絶対視する。そういう者に限って「理論は終わった」などというのだが、そういう者には、要するに思考がなく、教義に嵌っているだけである。個々人の経年の経験だけが条件なのではない。道具や環境が画一化することによって経験が画一化し、思索が忌避されることがある。大抵、そういうときには、個性、現代、実態、平等などという名目が振りかざされ、思索は実態にそぐわないために無意味な空論だと棄却される。思索者すらもその教義を内面化し、加担することも多いのだが、優れた思索者からすれば、経験の成熟が集団的に製造され、その範疇外の思考が不可能になっていることの方がよほど恐ろしい。たとえば、過去に遡ることによってほかにありえた可能性を見出したり、画一性における「個性」なるものから逸脱するケースを見つけたりすることで、それに順応しない種類の想像力を養うことは、思索者の強みである。端的に言えば、思索は、素早い動向の変化や、大規模な画一性によって忘れ去られたものを思い出し、真理や有用性の専制の渦中で、それでも思考の自由を希求する営みである。この稿で原理と呼ぶのは、個別の経験や思考の現出では捉えきれないが、それをそもそも成り立たせている、その種の土壌を指している。経験が順応から逃れられなくとも、思想は「そこ」を考える、少なくとも考えようとすることはできる。思索者は、その土壌を「思う」詩人であり、それを精密な言語で表現する言葉の芸術家である。

言うまでもなく、この稿が原理と呼ぶその土壌には単一の目的などありえない。しかし、それが持つ働きは、常に大まかに一致しており、精神の運動としても、それぞれに方向性は違っても共鳴するところはある。動向や必要という説得的な名目においては曖昧模糊としており、それを始めるためにも多大な知的訓練を要する思索は、その、統一し得ぬ統一性について、責任を持って一つの名前で呼ばなければ、戯言として棄却されてしまうように思える。だからこそ、誤解を恐れずに、と前置きをした上で、私は、思索には、原理となりえない原理、目的となり得ない唯一の目的がある、いや、より極端に書くならば、学業、科学、政治、医療、教育、倫理などの人間の営み、あるいは文明には、唯一の目的がある、と言いたいのである。それを「哲学」と呼びたい時期もあったが、高等教育機関で出会う「哲学者」たちは、思索の死んだ官僚ばかりであり、自らの産業を守るために「哲学」を振りかざす者も少なくなく、その言葉に魅力を感じなくなった。思索者とは、単に、自らと対峙すべく考え続ける人である。

一人の思索者の使命とは、原理の断片を収集し続けることによって、原理そのものを思索し、表現することである。他者に演奏すると、それは浸透することによって薄まり、原理性を失ってしまうため、演奏をする際には注意が必要である。やはり、人間の目的には唯一の目的がある、などという考えは、他者に共有した途端、原理主義のような、偏狭で危険な党派に堕す。単に偏狭さを真似して広める布教者にならないために、思索者は、特定の哲学・文学・宗教・学派・政治的党派・科学的理論などに順応することによって精神の躍動を止めてはならないのである。原理から思索をすることに寄与する限りにおいて、あらゆる知を愛さなければならない。思索は、他者には簡単に伝わらない精神の高い自由を称揚する点において、他者から見れば、秘密カルト宗教のようなものだが、それでいいのである。ともかく肝要なのは、自らと対峙する思索が止まらないこと、妥協することなく原理を演奏し続け、歌い続け、書き続けることである。思索は、真の意味での共鳴者を育てなければならない。単なる九官鳥や意味不明を言う後進を生まないために、そして、その使命において誤解を生まないように、思索者は、自らを厳しく成熟させ、その成果を明晰に表現しなければならないのである。