気分と調律(5)

ここまでで「意志、芸術、思索」において帰着した思索の原理について特徴づけることはできたと思う。次は具体的な方途について書きたい。まず、真摯なキリスト教徒が何をするにも神に感謝しながら行うように、(1)原理から思索をする者は自由を尊敬する。自由の尊敬は、偏狭さとの対比のリズムにおいて生命力を持つ。自由とは、今現在の制約の彼岸の未踏であり、それを模索するのは思索(言葉を尽くして未踏を発見する営み)と探究(状況において未踏を発見する営み)と芸術(状況において物事の配置や状態を変えることによって未踏を発見する営み)である。これらを行う際、臆してはならない。それを卑下したり、恥ずかしく思うのは、その営みにおいて批判的に捉える者の規準で未だ活動している証である。旧友、異性、異分野の学者、企業人、芸術家、職人、大統領ーー。たとえ誰を前にしても自らの営みについて堂々と話せばいいのである。それは、自らを過大評価しているわけでも、他者に対抗しているわけでもなく、単に、自らの真摯な努力の成果の具体的な報告であるに過ぎない。思索と芸術と探究が他人に簡単に認められないのは、その成果が営みを行う前に確認できないからだが、未だ見えない世界を求めない者の世界ほど新鮮さを失っているものはない。思索と芸術と探究はいずれも自分自身の問題に過ぎなく、それが自動的に他者に見せびらかす真・善・美・聖を生むわけではない。真・善・美・聖は各々が自ら探究をした成果として発見するものなので、成果を消費者に配ったとしても、他者に届くのは空虚な残滓に過ぎない。その点、思索と探究と芸術を共有・享受・推進できるのは、身近にいるほんの数人の友人のみである。

共有という点について付け足せば、「社会」への働きかけの大半は誤解や勝手な援用の賜物である。ランシエールの『無知な教師』における教育者ジョセフ・ジャコトの挿話がそれを物語っている。王政復古のフランスからオランダへ逃れてきたジャコトはフランス語を教えることになったが、彼はオランダ語を話せず、学生はフランス語を話せない。彼はフランス語の本を一冊だけ用意し、それを暗記し物語るようにだけ学生に指示をした。普通、自らの活動に知識や価値があると自負する者は、それを人に熱弁し、教えるが、ジャコトは、そうした、教育学でよく見られる、いわゆる教授活動をほとんどしなかった。しかしどうだろう。学生は、簡単な指示を一つ与えただけで、フランス語をすらすらと書けるようになったのである。経験は、深化すればするほど自らを絶対視するようになるため、特定の活動に勤しむ者は、それが大事ーそこには真・善・美・聖があるーと信じるようになる。しかし、教師などいなくとも人は勝手に学ぶ。学生が教師に対し、「先生のおかげです」と教師に感謝する典型的な場面があるが、その発現とは、学生が自ら勝手に学んだ事実に対し、「教授活動における教師と学生の関係」という一種の思想を学生が吟味することなく信じ、自らの内に生まれた知の条件や原因を教師に付与しているに過ぎないのである。

教師の役割を料理で説明するならば、料理をするのは例外なく学生である。教師とは、優れた素材を料理人に届ける運送会社であり、料理のレシピを記し、説明するレシピ本であり、学生の前でそれを実演して見せる範例である。学生を前にした教師の実演を表象の次元で理解すると、それはいわゆる教授になるが、そこで実際に行われているのは、洗練された具体例を前にした学生自身による創造である。そういう意味において、学生にとって教師が参考になる度合は、教師が教授活動に転じた途端に縮小再生産され始める。(2)教師とは、自らの追求の成果として、優れた範例を造り続ける者である。似値的にそれを「正統」に学べるのは最も身近な数人のみであり、その小さな集団を超えた「正統」な働きかけが可能だと考えることには妄想じみた側面がある。しかし、そもそも、正統性とは、自らの学びの果てで結果的に発見するものであって、完成された他者の真似をすることによって構築するものではないはずである。正統性がきちんと学んだ成果だとすれば、後者は、単なる伝統主義・原理主義権威主義である。無論、それは、自らの経験の蓄積を他者に表現すべきでないということではない。ジャコトの例のように、一人の教えない教師が異物として集団に入ると、その生態系において新たな思索や探究を行う若者が生まれるからである。そのさじ加減は状況に応じて再考しなければならないが。

それでは、豊かな思索・探究・芸術を行うための大まかな土壌とは何か。大前提として、(3)勇気を持って世界に積極的に参加し続ける必要がある。塩を舐めたことがなければ、しょっぱさについての語りも、それに関する表現も、嘘っぽくなる。あるいは、他人が描いた「女性」だけを見て「女性」を語る表現は、業界で似通った表現の類型を生む。それこそ、近年のアニメ業界が描く「女性」は、実際に出会う日本人女性とは全く異なるように。それはいわば、特定の趣向を持つ、大まかに男性による協同の「女性」哲学なのである。そうしたアニメを見て育つと、「女性」にそれを期待するようになる。類型表現から学ぶことそれ自体が悪いというわけではないのだが、アニメが描く「女性」とは、学校教材で言えば教科書のような、消化と消費のために標準化された像である。できるならば、教科書を置き、未踏の世界に出ていきたい。自分で空を見上げ、海に入り、山を上り、釣りをし、船に乗り、砂に寝転がり、他者と議論し、肉を食べ、野菜を食べ、喜び、死を嘆き、泣き、怒り、反省し、仕事をし、そして女性と関わりたい。「同じ」ことをするにしても、異なる状態・角度・視座で行いたい(空腹で、満腹で、怒りながら、喜びながら、腰の痛みを抱えながら、睡眠不足で、アメリカで、日本で、など)。

生物学的・脳科学的側面から言えば、人間の身体は、環境との相互作用を繰り返すことにより、調和の取れた動作ができるようになる。生まれたばかりの赤ん坊の動作に配慮やニュアンスがないのは、最も身近な環境との調和がないからである。大人にとっては当然の動作(人差し指の動かし方や口のすぼめ方、など)も、環境と直面することによって学んでいるのである。最近の10代は「両足ジャンプ」ができないと読んだことがある。それは若者が劣っているのではなく、その複雑な動作を完成させる環境がなかったというだけである。文化的な行動様式も同様である。現代の10代は「電話に出る」ことができない者も少なくないそうである。これもやはり、若者が劣っているのではなく、単に自宅に電話がないというだけである。若者には代わりにスマートフォンなどのほかの連絡手段がある。要するに、世界に参加して形成される様式は、善悪や優劣の問題というよりも、特化した環境下での繰り返しの問題なのである。特定の様式は、繰り返せば再生産され、繰り返さなければ衰退する。「老後に仕事をやめるとボケる」というのは迷信ではなく、生物的事実なのだそうである。仕事をしているうちは、気づかぬうちに、環境の圧力で様々な認知活動(見る・触る・反応する・喋る・問題を特定する・人と協調する、など)が稼働していた。しかし、その参加がなくなると、複雑な認知活動が激減し、ニューロンが死に絶え、筋肉が衰退し、思考が緩むわけである。

「勇気を持って」世界に参加し続けなければならない理由は、新たな経験は不快だからである。不快なことをしたい者などいない。しかし、不快や億劫を理由に経験から撤退し続けると、いつの間にか常識的な行動すらもできなくなってしまう。たとえば、異性に対する苦手意識から異性を避け続けると、それを数年間続けた暁には異性との接し方を完全に忘れ、嫌悪するようになる。私個人の話をすれば、「思索と文化」あたりから、独りで思索をすることにこだわるようになり、それによって考えを巡らせる技巧が著しく高まったと思う反面、他者の前に現れること、考えを端的に他者に説明したりすることが困難になってしまった。ともかく、そうした断絶が決定的なものとなり、自他に摩擦を起こすようになると、いわゆる障害として発現する。こうした障害は、先天的な要素もあると聞くので難しくもあるのだが、人の、環境との関係性における学びと衰退という観点から言えば、その文句に囚われすぎることによる断絶を硬直化させる態度は摩擦の循環を再生産する。言い換えれば、それは世界に参加しないことによる苦しみを「練習している」のである。逆説的だが、不快・億劫に思えることが目の前にあったら、それこそコミットすれば「世界に参加する」幅は広がる。全く無作為に想定外の活動様式に飛び込むというのも一つの手である。その際、理由や意義など必要ない。理由や意義は、今現在の自分自身の思索と習慣の賜物なので、むしろそんなものない方がいい。

次に、(3)と逆行するようだが、(4)自らの生活様式の傾向性を知る必要がある。人間が生物である限りにおいて、これ以上破壊できないという学びと衰退の秩序を持っている。それは、物理的様式だけでなく、精神的様式も当てはまる。こういう書き方をすると、それは悪しき還元主義だと非難する者がいるが、それは見当違いである。多様な思索を称揚するならば、いっそう言葉を使うという様式の生物的・文化的側面を理解しなければならないはずである。それを無視するから、言葉の使い手が存在論をすれば世界の根源が説明できる、などという妄想じみた「思想」を本気で信じられるのである。哲学史を専門的に読み解く者の強みとは、難解なテクスト群を読解する経験が深いことにより、言葉を使う技巧が高いことであり、その伝統について人前で歌えることである。広告や道具としての言葉が溢れる世界において、この稿で記述してきたような、自らと対峙する種類の言葉の使い方を思い出すために、哲学史は重要な参照元である。しかし、恋愛漫画を読んでも恋愛が上手にならないのと同様に、いくら先人の優れた文章を読み解いても世界についての理解は深まらないことを忘れてはならない。

アメリカ人がやたらと「神がどうこう」「人種がどうこう」と繰り返すのは偶然ではない。この人たちは、そうした言葉がリアリティを持って語られる生態系に生きているのである。サラ・アフマドの『感情の文化政治』に面白い挿話があった。ニューヨーク・ハーレムの地下鉄で、クリスマスの買い物帰りのオードリー・ロードが座席を見つけると、ロードは、隣席の女性が目を見開きながら自分を凝視していることに気づく。彼女は、あからさまな嫌悪感とともに、ロードを上から下まで舐め回すように視線を送り、コートを自らに寄せた。ロードは、女性は私の近くの何か汚いものを発見したのだろう、ゴキブリでもいるのだろう、とあたりを見渡したが、何も見当たらない。結局、ロードは、その、ゴキブリのような、汚く避けるべき対象は、自分自身であったのだと自覚する。ロードはアフリカ系アメリカ人の女性であり、彼女を凝視する女性は白人であった。この間、言葉は一切語られていない。

ゼミでこの挿話が語られたとき、私は、それを人種問題として語る必要があるのか、と問い、大バッシングを食らった。私は、バスの中で互いに視線を向ける中で嫌悪が生まれる所作には、ほかにも解釈の余地があると思ったのだが、どうやらアメリカ人には、明示的了解がなくとも人種差別が「分かる」らしい。その不一致があってから、私のオレゴン州での生活で人種を意識せざるを得なくなった。具体的に言えば、2018年10月16日、Fallen Skyというパブでピザを食べながら、アメリカ人のジョンと中国系アメリカ人のシャオと歓談しているとき、私にも「分かる」と思える憤りがあった。 私は一枚目のピザを食べ終わり、二枚目を注文した。普通、食事を注文すると、その人の名前を呼ぶのだが、白人女性の店員は私の名前を確認することなく会計を終えた。しかし、数分経ったときに呼ばれたのはシャオの名前であった。会計の人は、私をシャオと勘違いしていたのである。これに対し、私は思わず、「アメリカ人はクソ差別主義者だ!(Americans are fucking racists!)」と言い放ってしまった。この一局面だけを見ると大した事件ではないように思えるが、ちょうどその少し前に、同じ研究科の大学院生が(!)シャオと会話しているとき、彼をシュンジと呼ぶという、首を傾げる事例があったばかりであった。私が私であるという何の変哲もない事実によって、私はほかのアジア人と同じ、そして、大抵、白人よりも低い、と思われるのである。これはアメリカの歴史が現代に引き連れる、生ける思想である。アメリカ社会は、形・色・所作などの言葉にならない事象によって条件づけられた、人種を見分ける共通の知覚が、その大地と歴史の中で継承されている。

この種の生きた思想は、ほかにも簡単に見つけることができる。同じ16日の日記に、私は次のようにも書いている。13日にカフェで読書をしていると、泥酔した男が入店し、何も買わず、うわごとを言いながら、席をいくつか占拠していた。その男に声をかけたのは女の店員である。彼女は厳しくも対等に、男の尊厳を守るかのように注意をしていた。下劣だ。私はこれを見て、思わず、「男」として社会化されることに心底嫌気がさした。他方、女の文化に一種の高貴さのようなものを感じるとともに、その難儀さを想像した。男は、動物のようにふるまい、醜態や恥をさらすことを許されるが、おそらく女は許されない。女は自らのふるまいを研鑽しないと、品がない、女らしくない、などと言われる。女は、自らの所作と言動を検討することを余儀なくさせられるにもかかわらず、まさにその検討の成果によって「いつ結婚するの」など言われ、顔・胸・尻などの形で評価されるからである。

こうした挿話で何が言いたいかというと、世界に参加しなければ思索や探究は始まらないが、それを行うことで一定の秩序やパターンを形成した途端、それを取り巻く状況に必然的に制約されるということである。(4)自らの生活様式の傾向性を知るというのは、まず、この世界への参加におけるこの種の必然を理解するということである。

しかし、思索の強みとは、必ずしも、その否定し得ぬ傾向性に考えが還元されないところである。状況における未踏を追求する側面の強い探究に対し、思索は精神的自由を模索する。とはいえ、この際も、やはり(5)自らの思索の傾向性を知る必要があるだろう。

経済学出身の研究者の知人に次のような人がいる。単純な思考枠を想定しなければ考え始められず、それを決めると融通が利かず、事例がその枠に当てはまれば自動的に正しいと思い込む。アンケートで「はい」が多いとそれは是だ、と単純に帰結して動けない。彼は、そもそも「はい」が「いいえ」を意味する可能性があるとか、少し経って同じデータに立ち戻れば「はい」の意味が変わるとは考えられない。端的に言えば、この人は「解釈」という考え方が永遠に「分からない」人である。思索の幅を広げるために解釈学を学べばいいと言うのは簡単であり、思索は、まさにそれを行う営みなのだが、おそらくこの人は、仮にハイデガーやガダマーを深く読み解き、雄弁に解説する能力を身につけたとしても、単純な枠と量の次元でそれを行うに違いない。

この相容れなさを理解することこそが、自らの傾向性を知るということである。極端に言えば、幼い頃から学校では反抗的で成績は悪く、それでも文学を読み、詩を書いて育った思索者と、学校で常に正解を導き出してきた思索者では、どこかで互いに耐えられなくなると思うのである。あるいは、どう努力しても学校文化においてスクール・カーストが生まれるように(アメリカでは人種ごとに分離するそうである)、居心地のいい場所を模索する中で、選択した途端に何かが拒否される事態は必然だと思うわけである。なぜだか気の合う者がいたり、どうしても話の合わない者がいるように、思索の傾向性において何が自らと共鳴するのかを模索するのはおかしなことではないはずである。

こうした思索の傾向性は、大抵の人が一つしか母語を持てないように、10代後半において覆すことがすでに難しくなる。言語だけでなく、味覚・人間関係・思考パターンなど、生活のあらゆる領域において、「母語」的な、立ち戻るべき秩序が、かなしいかな、若いうちに形成される。ハイデガーやガダマーが「分かる」人がどうして存在するかとい言えば、言うまでもなく、ドイツ圏には、そうしたテクスト群を幼少から読解し、そこに住まっている人々がいるからである。

さて、自らの思索を形成する際、その都度のテロスは未踏の追求であると繰り返しているが、その未踏は、対峙すべき自己を前提とする。無論、思索が行われないと自己は見えないが、自己が見えなければ未踏も見えてこない。それを推進する方法は、結局、無作為に思索をすることで、その航路には一定の道筋があったことを後々確認することだが、それを継続すると、少なくとも成熟した選択はできるようになる。ということで、自らの生活様式を理解する営みと同様、思索は、自らがどのような生態系で言葉を発しているかを自覚する必要がある。自分はそのようなものに囚われていない、と言い張る者も、よく思い出してみれば、たとえば、学生の頃に村上春樹をよく読んだとか、ハリーポッター・シリーズを読破したとか、新聞は毎日読んでいるとか、自らの発する言葉の傾向性を形成する素材群が必ず存在するはずである。

哲学史に目を転じてみても、そこにも明らかに傾向性は存在する。大型書店に行くと、そうした系譜をニュートラルに読み解くことが一応できるが、実際に系譜の守り手と出会ってみると、生身の人間として相入れないと思えることがある。百科事典的に学ぶことで系譜を概説的に学ぶことは便利であり、必要でもあるだが、そこには自らとの対峙が欠けていることが少なくない。無論、生きた系譜で思索をする人々は、対峙のない他者に出会ったとしても、積極的に自らの話をするだろう。生ける系譜からすれば、たとえば、謎の外国人が自らの思索を外国で紹介してくれると言えば、拒否するはずがない。そして、思索の欠如した謎の外国人も、思索をする他者の系譜の布教者となることができ、一定の社会的地位を得ることができる。

しかし、私が行ってきた思索では、自らとの対峙を放棄し、広告や道具のように言葉を使う思索に疑問を呈するほかない。思索者は、(4)自らの生活様式と(5)  思索の傾向性を理解し、(1)その文脈において未踏に向かって応答することが魅力的だと私は思う。それを教義的だと言われたら、そうだとしか言いようがないのだが、それは私が考えていないということではなく、むしろ、何をどの側面から考えようも、どうしてもその考えを覆すことができないため、それを信じていないと言う方が偽善的だと思えるようになったのである。無論、引っかかるものに固執しなければならないとか、居心地のいい世界を造らなければならないということさえも一種の思索の傾向性である。それが正しいということではなく、単に、私がそのように思索を続けたいというだけである。

それぞれの問いについて検討した結果、その逆を肯定することができない、というのは、要するに、主張を持っているという意味である。しかし、「『思う』ことが一つの倫理となること」において私は次のように書いている。天文学者が天体を観察するように丹念に「思う」習慣が身につくと、知的な命題を掲げ、その正当性を競う推論のゲームの文脈における「主張」という考え方が消えてなくなる、と。それでは主張とは何かと言えば、それは特定の生活様式を開発した成果そのものであり、必要とあれば摩擦を引き起こすことも辞さない態度である。無論、摩擦を起こしたからと言って何かが変わるとか変えられるというものではなく、繰り返すように、単にその様式を研鑽した結果、捨て去ることができないというだけである。リチャード・バーンスタインがインタビューでこのように言っているのは一つの範例である。

I find it difficult to sympathize with people now who are... Not that people are interested -- I don't care whether one is interested or not -- but who don't think it's improtant... I think it's tremendously important to *think.* ... I'm committed to its importants in itself, and because I think it makes a tremendous difference in how we live and act in the world. 

彼は、ニューヨークで、長年、哲学の教師してきたことで、彼が「思考」と呼ぶその営みを重要でないと言う人々に「同情できなくなってきた」としている。これはもはや正当性の問題ではなく、彼自身の生き方の問題である。それは、音大の作曲科出身の知人が、保険会社に入社したあとも、仕事の合間に作曲活動をしている様子と似ている。

私の思索をより具体的に見るならば、そもそも、生きるべきか否か、そして、世界に豊かに参加すべきか否かという両論点に対し、それでも是と主張するのは一つの思索の伝統であるという自覚がある(「意志、芸術、思索」)。この稿で言うところの(1)と(3)に私は否と言うことができない。次に、物事をきちんと考えるべきか、そして、経験したことを書き記すべきかという問いに対し、私は否と言うことができない(「思索と文化」「日記」「『左翼的なもの』の発見」「『思う』ことが一つの倫理となること」「想像力に関する省察」「On the Intellectual Way of Life」)。 新たな経験は不快だという点にかこつけて言えば、私は、(3)世界への参加と(1)未踏を求めるという二点に関し、それを拒否する者にとっての不快の始原になることを厭わなくなってきているのである。