気分と調律(6)

ここまで記述してきた私自身の思索の傾向性において、哲学史を読むアプローチが生まれる。壮大な散文詩たる哲学史を、テクスト情報を消化するためではなく、自らの思索を再考する手段として読み解くことができるわけである。その読解は、テクストを追想し、反芻することで、仮にテクストを置いても、その内容を、まとまった塊として想像する過程ある。それができるようになると、テクスト上の論点が、活字を理解して消化する問題ではなく、三次元的に吟味可能な生きた問題となる。その塊を疑似「状況」として再構築できるようになると、その塊の運動に自ら参加し、様々な側面から、その長所や短所を吟味したり、新たな状況において効力を持たせられるようになる。こうして思索を学ぶと、100年以上も前の思索であっても現代に蘇るわけである。無論、思索の文脈が異なるため、字面における共通の躍動とは裏腹に、その発現は必然的に新しいものとなる。読解のより具体的な方法はと言えば、単に注意深く文字を辿ることである。その注意深さにおいて、特定の言葉や言い回しがブラックボックスであることを自覚するはずである。流動させたり、解体したりできない箇所は、要するに、自由ではなく、自ら参加できていないのである。

ここでは一体何が行われているのだろうか。それは紋切型への挑戦である。自由に向かう精神の躍動を仮に思考と呼ぶとすると、いくら小手先の技巧が優れていても(語彙が豊富・ことわざを知っている・事実をたくさん知っている、など)、思考の欠如した思索は少なくない。思考のない物語・絵・音楽作品、そして人間も少なくない。無論、思考とは言っても、それは、紋切型に収まっていない、という否定によってしか指示できないのだが、少なくとも、それは、整然とした文章のことでなければ、認知(見える・聞こえる・触れる)のことでもない。思考が欠如した証とは、その残滓と対峙しなくとも内容が簡単に予想できることである。逆に、優れた思索者は、常に思考をしているので、その人の表現は読者の予想を超える。それは、奇抜なことをすればいいとか、複雑なことをすればいいということではなく、単に、その都度、吟味しているため、知らぬうちに逸脱しているというだけである。

結果的に、思考を称揚する者が行っているのは、自らの生きる世界における思考の欠如の指摘であり、豊かな吟味の追求である。その運動は、勢いよく勝手に動き出し、他者に認められないことを恐れず、勝手に豊かさを増していく。魅力的な思索は、その躍動が最も活発なモニュメントである。しかし、精神の躍動の醸成をめんどくさいと感じたり、全く研鑽されない自己を「個性」の名の下で容認すると、表現の見せる精神の躍動とその交流は棄却され、表現が醸成する気分はセンチメンタリズムと混同され、思考の欠如した者同士が互いの気を引くゲームに終始することになる。これを社会の原理として理解してしまうと、まるで誰しもが思考しなければならないように聞こえるが、そうではない。健全な社会においては、怠惰な後退も容認されるべきであろう。たとえば、寿司職人が、寿司に味盲な者は一流の人間ではないと言い張ることや、駅前で突然イエス・キリストについて熱弁することが勘違いであるように、私が思考活動にこだわりを持つという事実は、それを他者も受容すべきだという主張とは別次元である。社会科学者は、簡単な事実を明らかにするために数年間データを収集する。利益の最大化という目的が明らかな産業界においても、マーケティング(商品が売れるように市場の事情を理解すること)が学問として成立している。思索活動の必要性を社会で主張したい者が、こうした努力に対して思弁で対抗したり、事実関係を無視して他者を唆したりするのは、思索の力を信じているというよりも、妄想に囚われている。思索に力が生まれるとしたら、それは、複雑な世の中を複雑なままに理解する技巧によってである。それを軽視し、思弁それ自体に何やら本質的な価値や力があると信じる者は、雄弁な英雄が顕れたとき、すぐに流されるだろう。その英雄が宗教者や哲学者であれば、従順な信徒や優れた人格を生むだけだが、それが政治家であるとき、話は深刻である。

いわゆる哲学書がテクスト読解のエチュードとして優れているのは、それが吟味に行き届いた表現の賜物だからである。優れた哲学書とは、数年、数十年の思索を一冊に凝縮した芸術作品である。言うまでもなく、それは一読して消化できるものではない。哲学書の読解は、楽器の弾き方を学ぶことと似ている。ヴァイオリン練習をするとき、特定のポジションや音色に何度も立ち戻る。その道のプロに至っては、演奏時間が30分を超える交響曲や協奏曲に立ち戻る。思索の読解も同様である。追想し、再構築し、立ち戻り、変化をたしかめる。難解なテクストを満足に読めるのが1日1時間だけならば、その1時間だけ読めばいい。しかし、楽器演奏の上達と同様、その集中した1時間を、欠かさず毎日、最も集中力が高い時間に行わなければならない。これが重要である理由は、惰性の中で読まれるテクストは、その種の読解方法を「練習」することになってしまうからである。ほかにも様々な読解方法はあるだろうが、とりわけ哲学書の読解については、じっくりとテクストと対峙する方法を身につけることが望ましい。

そうした丹念な追想を続けていると、二度と同じように考えられなくなり、思索のリズム・気分・話し方が重なるようになる。真剣に対峙すると、変化は毎日起こるのだろうが、経験上、少なくとも2ヶ月間は続けなければ、変化に気づくことはできない。しかも、その2ヶ月は、実際に探究を始めるきっかけに過ぎない。これをほかの活動でたとえるならば、気まぐれで市民演劇に一度出演すると、演劇の面白さを経験することはできるが、それは演劇人生の開始点に過ぎないようなものである。演劇芸術の深みを理解し、自分なりの表現を一つ生み出すためには、ステージに立ち続けなければならない。哲学書の読解もこれと同様である。大抵、哲学書には一人の思索者の名前がつくわけだが、それは、学者の群が、その人は独自の思索を切り開いたと評価したからである。だが、名前に感情移入することによって生まれる党派性は思索の質とは関係がない。ともかく、たとえば、西田幾多郎の思想を理解したいと思い、『善の研究』を一読しただけで西田を「分かった」と思うのは早計である。大型図書館に行くと分かるが、西田幾多郎全集は20冊以上ある。それを少なくとも半分くらいじっくりと読み解くくらいでなければ、独自性があるとされる一人の思想家と対峙したことにはならない。

もう一つ例を挙げるならば、ちくま学芸文庫で500頁以上の大作である、ハイデガーの『ニーチェ』である。ハイデガーは、この講義において、ニーチェが生み出したテクストを、不毛に思えるくらい詳細に読み解いている。一般に、ニーチェは『ツァラトゥストラ』などの著述群で知られているが、ハイデガーは、著述群を超えたニーチェと格闘している。ニーチェ全集を開いてみるとよく分かるが、ニーチェは日常的に箴言を書き続けており、そこに番号までつけていた(あるいは、番号は全集の編纂者がつけたのだろうか)。ハイデガーはこうした箴言を丹念に辿り、ニーチェの考えを追想し、「ニーチェの思想」なる300文字くらいで要約できそうな教義の次元を超えた対峙をしていたわけである。一般に、学説史的には、ハイデガーの格闘は、上巻においてはニーチェに接近し、下巻においては離反したと言われる。難解なテクストは、あくまでも他者の思索であるので、接近すればするほど、誰よりも近いが故の乖離が生じるわけである。その乖離の瞬間こそが自らの気分が醸成される予感である。この接近と離反が哲学書読解の魅力である。

往々にして、学者があるテクストについて、ハイデゲリアン、デリディアン、デューイアン、とその傾向性を指摘するが、それは、この種の思索の気分に気づくほど学んでいる証である。無論、それは内輪の談義として面白く、理解の次元において重要な技巧でもあるのだが、それはサークルの飲み会で後輩が先輩の噂話をするようなものであり、飲み会で雄弁に談義ができるからといって、その人の思索が面白いとは限らない。

読解におけるこうした運動は、事実内容を学ぶというよりも、その終着点はともかく、思索の取り組み方を学ぶ側面が強い。ハイデガーはドイツ詩人のヘルダーリンを敬愛し、研究もしているそうだが、それは、ヘルダーリンギリシア世界を尊敬し、それを深く学びながら詩を書いていたからである。ヘルダーリンの思索には、新聞や雑談で培われた近代人の思索とは異なる豊かさを持っていたのである。ともかく、この稿で私が気分と呼ぶものは、詩のイメージと似た特徴がある。難解な詩は、言葉には説明し切れない一種の整合性がある。つまり、明晰な記号の関係性では捉えきれないのだが、躍動する円や線、摩擦、ねじれや広がりに一種の一貫性がある。テクストとして安置されているのは、そうしたイメージを突き動かす装置に過ぎない。立派な研究書であっても、再読する気持ちが起こらないものが多いのは、そうした書物からは新たな思索の気分が学べないからである。

思想が新たに生まれるというのは、生ける精神が協同で思索を産み落とし続けることにより、後進にとって、それが読み解くべきエチュードとなることである。というよりも、他者と言葉を介して交流するあらゆる営みは、一種のエチュードである。知人に言葉や本を贈ることは、知らぬうちに思想を広めることであり、ましてや、友人と読書会を開催することは、ともに思想を醸成する活動である。中世の人々が教会で聖書の言葉を毎週聞き、20世紀の中国人が『毛沢東語録』をポケットに入れ、日本の法事で般若心経が読まれ、産業人は松下幸之助語録の新書を買いに行く。これらは全て特定の方向への思想的偏りである。名古屋にいた頃、次のように言う知人がいた。洗脳されることが恐ろしいので、宗教者や急進的な政治思想を持つ者と会話をしたくない、と。この人にとっては、この稿で言うところの「自らとの対峙」は忌避すべき活動であり、それを始めから拒否することが批判的思考である。私の考えはその真逆である。自らの意図と意志によって思想的課題に取り組み続けなければ、それこそ洗脳されていると思う。

さて、豊かな思索の仕方を学ぶ最良の教科書はプラトンの対話篇だと言われる。ここでもやはり、プラトンの対話篇をいわゆる「イデア論」という教義の次元で読むことほどつまらないものはない。そもそも、実際に対話篇を読んでいると、対話の参加者がイデアについて議論している箇所はそこまで多くない。また、実際にプラトンが登場する箇所はほとんどないため、どれが「プラトンの主張」なのかを特定するのは非常に難しい。対話篇に記録されているのは、遠慮することなく様々な考えを試し、単一の教義に落ち着くことのない、決着したと思っても問いによって新たな視座を掘り起こす、思索における実験の数々である。プラトンの著述を手に取る者は、基本的に「哲学は重要だ」と考えるので、ヒーロー・ソクラテスを応援しがちだが、論敵をソクラテスと対等に吟味すると議論に生命力が生まれる。プラトンが教科書として優れているのは、ほかにも理由がある。彼が執筆活動をしていたのは、キリスト教世界以前であり、いわゆる現代人が自明視する概念群が存在しない。それを自覚すると、そこに現代的な「生ける思想」を当てはめることが不適切だと思える。たとえば、「個人の魂」なる考えはキリスト教的な発想であり、「社会」について学ぶというのも近代の考え方である。少なくとも、現代を自明視し、その概念群からプラトンを読み解くよりも、プラトンの思索に慣れ親しみ、そこから現代を読み解く方が、簡単に現代の「生ける思想」に巻き取られない思索の持ち主へと成熟できるだろう。無論、現代には、そもそもギリシアに立ち戻ることさえも問題だと言う系譜もあり、その視点からラテン・アメリカやアジアに目を向ける者もいる。が、少なくとも、視座の多様さと精密さという点においては、西洋哲学よりも豊かな系譜を私は未だ見つけられていない。

学ぶべき系譜が何かという難しい問題はともかく、ラディカルな思索に触れるのはよい入門になる。ラディカルというのは、遠慮することなく、平板な現在を否定し、その徹底的な否定において見えないものへと肉薄しようとすることである。マルクスの著述が面白いのは、思索の躍動において遠慮がないからである。マルクスの著述を教条主義的に読解する者は、資本主義について語らない思索はラディカルさが足りないと言うが、そういう者たちは、マルクスの系譜という伝統的な立場に順応している点で、思索においてはむしろ保守的である。ラディカルな思索が追求し得る方向性は、たとえば、多様な状況の豊かさへの感性が鋭くなり過ぎた結果、一つの見解が持てなくなったり(デューイ)、そもそもあらゆる答えを体系的に拒否する(ハイデガー)など、当初、想像するより多様である。若者はラディカルな思索に惹かれる傾向にあるが、それは、理屈に没頭し、理想を醸成することで、同時に不完全な現在が発見され、そこから明確な方向性を持った探究が始まるからである。しかし、その反面、彼らは、目の前の状況の成り立ちや維持に関して無知であるため、教義や波及力に固執することで複雑な様相を無視し、極端な選択をするわけである。そうして、たとえば、ハイデガーの系譜で思索をする同僚が、フェミニズム哲学の授業が必須科目である事実に対し、「フェミニズムは哲学ではない。それに関心を持つこと自体が二流の証であり、参考にするに値しない」と自信を持って言い切ったり、マルクスを信奉する者は、九官鳥のように、目の前の世界を単に破壊せよ、と繰り返すのである。それでも、ラディカルな思索が面白い理由は、現状・空気感・同調圧力に屈しないことこそを是とする思索が学べるからである。その点、その思索内容の方向性はともかく、ラディカリティは、独自の思索を開始する必要条件である。

ラディカルな精神の躍動は、強烈な否定によって躍動を始め、生命力を得るが、それは同時に党派心と結びつきやすく、その限りにおいて思索の自由は閉じられる。さらに、ラディカルな主張は荒削りで単線的である。そうした単線的な運動は、共鳴する他者を作りやすい反面、魅力的な思索を成熟させる段になると弊害になる。魅力的な思索は、例外なく、様々な方向へと広がり、複雑に絡まり合い、一言ではまとめられない。思索は、それが生命力を持って躍動している間しか生きておらず、止まった途端、まるで最初からなかったかのように消え去る。精神の運動において実験をする思索者は、その都度、毎回、最初から始めなければならないわけだが、単線的な運動が入り乱れる中では、ニュアンスのこもった優れた思索はかき消される。思索者の責任(responsibility)とは、思索の豊かさに関する反応の機敏さ(responsiveness)を保つことである。 

それをハイデガーの文脈で語ると、詩的言語に堕したとか、神秘主義に陥ったと批判されるが、もう少し地に足のついたウィリアム・ジェイムズの言い方を借りれば、それは単に次の一文に要約される。「哲学とは、いつもほかの見方が見られる習慣である("Philosophy is the habit of always seeing an alternative")」。あまりに魅力的な記述なのでその前後も書き抜いておこう。

If the best use of our colleges is to give young men a wider openness of mind and a more flexible way of thinking than special technical training can generate, then we hold that philosophy... is the most important of all college studies. However scepctical one may be of the attainment of universal truths... one can never deny that philosophic study means the habit of always seeing an alternative, of not taking the usual for granted, of making conventialities fluid again, of imagining foreign states of mind. In a word, it means the possession of mental perspective.... Is there space and air in your mind, or must your companions gasp for breath whenever they talk with you? And if our colleges are to make men, not machines, they shold look, above all things, to this aspect of their influence. ("The Teaching of Philosophy in Our Colleges")

当初、若者が哲学や宗教に関心を持つとき、何かよく分からないが深そうで、学ぶことで何かが変わる気がする、という曖昧な期待がある。その曖昧な期待は、「救済への希望」かもしれないし、「よりよい社会への渇望」かもしれない。しかし、哲学や宗教に対するナイーブな期待の先に続く思索と探究は、とても単純な営みである。それは、物事を簡単に自明視しないこと、慣習的なものを流動させること、異質な思想を想像すること、である。そして、このシンプルな営みは、会話・読書・執筆が手段となる。様々な学派や流派が乱立するのは、先人のテクストだけを読み解いていると、「一人で勝手にやってろ」と他者に言われ、それを行う当人も不毛だと感じるようになるからである。そこで、その都度、状況の要求に応じ、たとえば、「現代の正義に関する議論」とか「近代哲学を突き崩す」などと語彙を変えながら自らを保つわけである。