気分と調律(9)

思索は、明晰性によって混乱を解消する営みと、見えるものから見えないものへと肉薄する気概の緊張関係によって成り立つ。前者は、学説史的に言えば、擬似問題を解消する種類の思索である。しかし、これが思索の新たな展開を触発することは少ない。たとえば、認知言語論は、思索者が固執する概念群は経験秩序の比喩だと主張し、思索者が対峙してきた問題は比喩に関する理解が足りないからだとする。この主張は正しいのかもしれないが、それを知ったところで思索者に影響を与えるわけではない。仮に、「愛」には150種類の比喩があると理解しても、そのうちの1つに固執して愛の本質に肉薄する試みを解体できない。なぜなら、「愛」に関する言語が生まれるのは、具体的な他者と出会った思索者が、情熱に突き動かされて語るときだからである。無論、その思索者は、理解不足であり、知見を無視しているわけだが、それが問題となるのは、他者の否定的評価にさらされたときである。愛を思索する者にとっては二次的関心なのである。思索者にとって、正しく語ることや、整然と語ることよりも重要なのは、たとえその語りにおける比喩の種類が貧困であっても、愛について語り尽くすことである。端的に言えば、思索者は、いわゆる擬似問題の中でこそ力を得る。先人の思索において参考になるものがあるとしたら、それは、その格闘を行った結晶である。「お前は混乱しているからその営みをやめろ」などと言い、等身大の個々人が抱える喫緊の悩みを否定する者の話を誰が聞きたいだろう。未踏の世界でもがく思索者の息遣いのリズムに直接的に食い込むことのない他者の指摘は、その題材自体に関心を寄せる物好き以外に魅力を持たない。

それでは思索者が立ち戻ってやまない擬似問題とは何か。それが後者の、見えるものから見えないものへと肉薄する気概とそれを阻む力の緊張関係であり、この稿が、原理・始原・土壌などの語彙で言い表そうとしているものである。大前提として、1つのことを考えようと思ったら、その都度、遠慮することなく、これ以上考えることが何もないと思えるくらい考え尽くすことが思索である。その課題について考えずにはいられないならば、仮に重要性の低い側面であったとしても、そして、関わるかどうか分からない具体例であっても、課題の新たな面について考えられる可能性がある限りにおいて出し尽くすのである。その営みは一体何をもたらすのだろうか。それは、断片的な理解や考えを明確化し、他者や過去との違いを浮き彫りにすることによる、目下で感情移入する素材群からの逸脱である。思索は、その差異を自覚し、より広く肥沃な視座へと向かう過程の記録であり、道標である。

文章を書いていると焦って次の話題に移りたい衝動に襲われる。しかし、そこは我慢し、今現在、考えずにいられない主題に留まり続けるべきである。というよりも、好き嫌いにかかわらず、仮に題材を変えたとしても、ある時期には、似たようなテーマ性で思索をするものである。自分があるジャンルの書物を読んでいるとき、偶然にもそのジャンルに詳しい人や、逆に大嫌いな人に出会って驚くことがある。それは、宇宙の必然や運命ではなく、単に、何と直面しても、私が物事に着目する仕方が傾向付けられているからである。それは、好意を寄せる異性がいると、その人と運命的に目が合ってしまうようなものである。思索においては、題材を変えても似たようなことを思索をせざるを得ないことを自覚し、その変化に気づくために、一つの題材に留まることで、その変化を確かめることが好ましい。1月1日のFさんの日記の言葉を借りるならば、それは「冗長主義」である。要領よくまとめられた記録は、使い勝手のいい道具にはなるかもしれないが、細かなニュアンスは切り落とされ、「要点」や「主張」になりきらない思索の変化ー形式に収まりきらない、その思索者の言葉より醸し出される気分ーを捨象する。プロのヴァイオリニストが、基礎的な音階練習を毎朝1時間行うように、思索者が行っているのは、題材に収まりきらない自らの言語の気分を(再)発見・開発することであり、そこに調律する過程で、同時に、逸脱する契機を模索することである。他者の文章を引用したり、書き抜いたりするのは、そこに潜む共鳴や違和感を感じ取るためである。

もう少し形式的に言えば、思索をしようと思ったら、「A→B→C」の順序を守って進むのではなく、あくまでも「A」に留まって考えた方が、結果的に「A→B→C」は豊かになる。「A」を吟味していると、その中に一定の区別や論点が生まれることで、「B」や「C」との関係性が変わる。「A」が「B」と「C」との関係性を変えたとき、すでに「A→B→C」の順序には信憑性がなくなり、「A→B→C」を一つの秩序としてみなすことがばかばかしくなる。さらには、「A」という名前を取り下げ、当初、「A」であった「それ」において新たな形式「1→2→3」を想定したくなる。この時点ですでに思索のテーマ性は変化している。無論、当初の「A」だけでなく、「B」と「C」においても同様の深化を模索していく必要がある。結局、「A→B→C」を自明視することは、誰かが私のために用意した思索の成果によって「A」から「C」へ自動的に稼働するブラックボックスを持つことである。それは、吟味しなくとも問題を引き起こさない道具としての利点はあるが、自らによる思索は欠如している。

こうして思索を深めると、土壌から行う思索が成熟する。それを仮に「始原的思索」とでも名付けようか。始原的思索によって自明の思索の運動から下へ下へと遡っていくと、物事の序列の見方が変わっていく。たとえば、市場に出回る商品群は「A→B→C」の序列である。私たちは、基本的に、商品が陳列される店頭に通いながら育ってきたため、欲求が店頭によって形成されている。欲しいものは、大抵、店頭に並んでおり、新たな欲求は店頭の論理(「A→B→C」)で再構築される。しかし、土壌から考える思索においては、個別の商品(「A」「B」「C」)がどこから来たのかを丹念に辿るわけである。そして、たとえば、地球環境に情熱を燃やす者は、商品の流通過程において、魚、海、山、土など、そもそも流通を成り立たせる土壌が体系的に無視・破壊されていることを発見し、商品の序列とその論理(「A→B→C」)が自明ではなくなる。店頭にしか感情移入をしない者は、その流通と購買を「合理的」だと考えるわけだが、そうした土壌にまで想像力を広げた者は、その「合理性」が、それ自身を可能とする地球を破壊する論理であることを自覚し、それがむしろ非合理的であると憤る。自己批判は、「私はだめだ」と「A→B→C」の次元の否定においてではなく、今の自分自身の思索や探究が、それを成り立たせる土壌からすると陳腐極まりないという自覚において行われる。言うまでもなく、こうした思索をする際、先人の思索は優れた教科書になるが、いつまで経っても教科書を再読するというのは、「土壌」を語りながら土壌を無視する、という皮肉な構図である。

始原的思索を続けると、思索者は、あくまでも、この稿で言うところの等身大の個人であるにもかかわらず、その人の表現物は、最も豊かな土壌を表現するようになるわけであり、まるで世界そのものが自ら語ったかのようなスケールを持つ。古代の宗教者は、この種の語りができる個人を「預言者」などと呼んだのだと想像する。これは「社会学的想像力」のような、世の中を単に捉えるための思索ではない。学びの深化において、世界を代弁できるようになったと自負を持つ者は多いように思われる。しかし、その種の預言者たちにおいては、等身大の自己との対峙が消滅している。いや、対峙が無自覚になると言った方がいいのかもしれない。思索が自分自身との対峙だということを忘れた思索者は、そのスケールの大きさにおいて活躍できる反面、やはり、土壌を無視することになる。そもそも、たった一人の思索者が豊かな土壌の全てを捉え切ることなど不可能だからである。語ることによってそれが可能だと勘違いする思索者は、一種のアニミズムに陥っている。交通事故の全容が様々な目撃情報によって明らかになるように、土壌から行う思索は、個々人が自らの生ける状況や傾向性を直視しながら行う協同のプロジェクトなのである。そして、仮に原子レベルにまで精密に交通情報を捉えたとしても、過去の経験を活かして知性的応答はできるかもしれないが、次の瞬間に道路で何が起こるかを予知することはできない。思索は、たとえどれほど前例に則った形式を採用しようと前例などなく、目の前の世界を捉え切ることはできない。また、土壌を代弁しているという自負においては、思索における自らのテーマ性のニュアンスとの対峙が失われる。

思索が役に立つというのは、「A→B→C」へスマートに参加することである。そもそも、思索は「A→B→C」の次元の土壌から考える営みであるため、その試み自体が「役に立たない」ことを求める。しかし、「役に立たない」自由にあぐらをかいたり、分からぬ者は放っておけ、と他者を見下したりしても仕方がない。思索が、結果的に「役に立つ」とすれば、それは、常に無意味だと言われ続ける中での自己証明においてである。その思索者は、「A→B→C」の中に生きながら、それを成り立たせる土壌から考える。物事の成り立ちについて深く学んでいるという点において、むしろ、自分こそが最も役に立つのだという自負すらあってもいい。無論、それを行うほどに成熟した思索者がほとんどいないことが最大の問題なのだが、それを嘆いても仕方ない。思索者は、土壌から考えようとする、誰よりも共鳴するはずだが相容れない同志とともに、概念になりきらない概念の守り手として発現し、特定個人や業界に媚びる小さくまとまった思索者と探究者に挑戦する。その意味において、始原的思索者が煙たがれるのは「役に立ちすぎる」からである。始原的思索者は、それを知らしめようと語り続ける、信徒になることのできない、最も敬虔な異端者である。その都度の試みや会話は場当たり的かもしれないが、その真摯な問い返しにおける精神の躍動は、土壌へと向かうきっかけを造る。この連続は倫理的・道徳的になり得ない。倫理・道徳は「A→B→C」の関係性において効力を持つわけだが、思索は、沈潜における逸脱を目的とするため、むしろ、反倫理的・反道徳的である。

往々にして、強い主張を持つ思索者の文章は、思い込みをそれらしく発表しているように見える。その主張内容がいくら正しくとも、予め決められた結論の周りに事実や理由が並べられている点において、その思索を取り巻く土壌が見えないことが多いからである。その好例が政治のビラである。それらに書かれる諸事実は、どれも魅力的なのだが、なぜだか党派によって「事実」が食い違う。そのため、その種の思索に載っているのが、私の思索を豊かにする土壌とそこにおける考察なのか、都合のいい情報だけを選り好みした偽善者の洗脳なのか分からない。

結局、新約聖書もこの種の思索である。新約聖書とは、ローマ時代に突如顕れて死んでしまった、唯一、見えないものへと肉薄できる者の思索の記録である。人の名前のついた書(マタイ・ヨハネなど)は、その人の言葉を直接聞いた者たちによるブログであり、地名がついた書(「ローマ人への手紙」など)は、始原において思索と探究をする方法を他者に教え伝える政治のビラのようなものである。始原や信仰というのは、その定義からして、たしかめられない物事を指す。しかし、新興宗教が乱立していたローマ世界において、ナザレのイエスの言葉を真に受けなければならない理由はどこにもない。ある思索が一個人の思い込みを超えていると思えるのは、その思索が余白を残すからである。思索の果実が自己完結しており、ほかに考える余地がないと言われると、それは非常に胡散臭い。世界の出来事を「事実」として特定する技巧が育っていなかった頃は、その余白ー言葉にならない世界ーは、神、絶対無、世界情勢、宇宙、無底、始原、無限などの無限概念として説得力を持ち、閉じていく種類の言葉に反抗できた。しかし、今や、思弁でその余白を表現する言語能力と、始原を思索において捉える能力が同じであると言えない。

無論、それは詩的言語が重要ではないという意味ではない。これらは、そもそもが言葉の営みである思索活動において、言葉にならない領域を求めることである。そこに身体感覚を研ぎ澄ます種類の儀式が加わると、それは神秘主義である。思索者が、自らとの言葉の対峙において、始原的なものへと肉薄する一つの重要な方法は、形式に感情移入して思索の運動が死ぬことのない様式を練習することである。私たちの世界には、手垢のついた言い回しや物事の描写が溢れている。言葉の使い手たる思索者は、そうした陳腐な紋切型に挑戦し続けなければならない。いわゆる「詩」や「文学」という思索の様式が魅力的であるのは、そこに、陳腐な表現を逸脱した、吟味され尽くした言葉を発見できるからである。言葉の形式は、雑談や論文の形式よりも無限に自由なのである。

クラシック音楽に没頭する者は、ジャズの音を汚いと感じるそうである。クラシック音楽の基礎は何よりも、太く正確な単音とその音階を弾くことである。クラシック音楽のレッスンにおいては、ジャズ音楽が醸し出すメリハリのない音は、正されるべき「悪い」音である。端的に言えば、クラシックの耳を育てると、「音楽」、さらには、世界の事物で音を出して楽しむ、という共通の土壌を忘れる。思索においても、「A→B→C」という言葉を使う者は、言葉のアニミズムに陥り、それをモデルに物事を考え、その外には何もないと考えるようになる。そうした態度が定着すると、思索者は、新たな無限概念を開発したり、言葉を発したことによって本当に世界の土壌が「分かった」と確信するようになり、その限りにおいて土壌は死に絶える。言語アニミズムに陥っていなくとも、自らが特定業界の党派人となることで、自らの権威を保持するために、特定の語り方に撤退するようになることもある。合理化と納得の誘惑は、いつでもどこにでもあるのであり、大抵、それはうまくいく。しかし、始原的思索を試みる者は、誰よりも卓越した言葉の使い手だからこそ、言葉に惑わされてはならないのである。始原的思索は、他者に認められたり、自分で勝手に納得したからといって完了できるものではない。それは、土壌を求める飽くなき躍動においてしか垣間見ることができないのである。豊かな土壌に関心を寄せれば寄せるほど、自らの思索の陳腐さを自覚させられ、目の前の吟味に向かうようになる。

真摯なキリスト教徒と話していると、何が起こっても、神は凄い、という一点に落ち着くことに気づく。私の理解によれば、それは、ギリシアの思索者が古典的に言うところの、存在に対する驚きである。コンビニに売っているレモンを「黄色」と呼んでみたり、それをかじって「酸っぱい」と叫んでみても、それがこの世界で黄色く酸っぱく発現する事実を説明したことにならない。仮に、光と網膜の関係性の原理と、レモン汁と舌の細胞の構造を明らかにしたとしても、それは、そのまま今日も発現する否定しようのない事実を自明視した上での知見に過ぎない。人工農園でレモンを栽培できるようになったとしても、その事実は変わらない。そこで行っているのは、レモンが勝手にこの世界に発現する事実から学んだ暁の条件整備である。人間がレモンを「造っている」わけではないのである。レモンを造っているのはレモン自身の歴史であり、レモンなる果実を生み出す地球の無限に豊かな条件における差異化の過程である。そこで、神を持つ者は、「それでは『誰』がレモンを造っているのか」と問うわけである。私はと言えば、特定の無限概念に落ち着くことによって、特定の党派に入信したり、党派を新たに造ったりすることができない。しかし、思索と探究をそもそも成り立たせている世界に驚き畏怖するというのは、土壌から思索と探究をしたい者の好ましい習慣だと感じられる。その簡単な「練習」方法とは、生きているものの近くで生きることであり、自分の力ではどうにもならない世界の力に定期的に触れることである。一人でいる時間が長いと、自分自身が静止・完成していると感じるが、たとえば、家に植物を1つ置くだけで、それが毎日繊細に成長している事実に気づき、それが、自分自身の繊細な成長に気づくきっかけになる。また、オレゴン州の海岸線沿いに行くと、世界の大きさを感じる。波はいつも荒々しく、そこに足を入れると、すぐに立てなくなってしまう。波は、私の好き嫌いにかかわらず、押し寄せてくる。海岸から太平洋の方を見て、私は日本を思い出すが、そのとき、いくらその方向に一生懸命走っても、荒々しい波に一瞬で飲まれて死ぬだけだと自覚する。太平洋は、私の思惑などに全く関心を示すことなく、人間が世界征服をする遥か前から同じように動いているのである。その雄大さを想像すると、自分自身が絶望的に小さく感じられるが、同時に、2019年1月に、自分自身が、太平洋と同じ世界で一生懸命考え、工夫し、応答しようとしている事実も、地球の悠久の運動と同じくらい驚くべき事実だと思うのである。

繰り返すように、始原的思索者は、詩的・神秘的な思索者のように、消化不可能なものとして土壌を表現する習慣と技巧を学ぶと思索が進展する。仮に事実や主張を構築する必要性があっても、土壌が断続的な背景となるような気分を形成しつつ、思索者がそれとどのように格闘したかを確かめられるように書きたい。無論、『創造的論文の書き方』にあるように、論文のような、議論を無駄なく他者に伝達する形式の文章においては、「舞台裏」を見せない技術が求められる。日記やブログの言語空間を私が重宝するのはそのためである。しかし、詩的・神秘的思索には難点もある。まず、前者は、多義性にあぐらをかいてしまう可能性がある点である。繰り返すように、思索は当人の追求と記録のためにあるため、何を書いてもいいのだが、詩的な言葉に興じることによってナルシズムに陥り、自分は散文よりも崇高なことをしている、と妄想することがあるわけである。神秘的思索においては、自らこそが唯一の始原を発見したという妄想に陥る。経験や直観はたしかに思索を進展させるが、確信が生じたという事実は、その唯一性を信じる理由にはならない。

その両方を含み入れるような思索の形式を考えることはできないだろうか。一つ思いつくのは、概念ではなく、寓話を単位として思索をすることである。概念には功罪がある。概念は、人間が物事を考えるための最も複雑で明晰な道具の一つである反面、その提起自体が閉じる方向性を持っている。世界は「一者」によって成り立っている、と言った途端、それは、まるで机の上に石ころが「2つ」ではなく「1つ」しかないように、何か「1つ」のものによって成り立っているという意味になる。しかし、土壌における「1」と「1つ」の石ころを指示する概念は同じではない。強いていえば、「一者」とは、概念においては「無限」のことであるが、それは必ずしも「1つ」が「無限」個ある、という意味でもない気がする。

寓話の面白さとは、そこで語られる状況が三次元的・多義的・消化不可能なものとして想像しやすいことである。思索の基本単位を、概念ではなく、寓話にすると、この種の誤解を防ぐことができると思うのは、寓話は、たとえ一つしか語らなくとも、そこから導き出せる結論が無限に豊かだからである。また、寓話の文脈において概念を示せば、思索者は、その表現物が、あくまでも寓話における一解釈に過ぎないことを読者(次の瞬間の自分・不特定多数の他者)に知らしめることができる。その限りにおいて、思索は私個人がしているにもかかわらず、そこに他者を招き入れることができ、強い主張の思索が持つ窮屈さに陥らなくなる。思えば、プラトンの対話篇が豊かである理由は、状況が必ず三次元的に開いており、その文脈において多様な参加者が教義を提起しているからである。プラトンの「プラトン主義」が始まるのは、アリストテレスプラトンを教義化したからだそうであり、それが形而上学の歴史の始まりだと言われる。しかし、その限りにおいて、アリストテレスプラトンの対話篇が持つ寓話性の無限の土壌を捨象してしまった。

大陸哲学においては、形而上学を乗り越えることが使命だと言われるが、それは現代の思索の傾向性においては不可能である。というのも、21世紀においては、一個人が発する言葉は基本的に個人に所有される。言い方を変えれば、何を語っても、それは個人の教義だと他者に解釈されてしまうのである。近代国家に生きる人間として、それは逃れようがないわけだが、土壌から思索をする試みにおいては、一個人から生まれる教義ほど土壌を覆い隠すものはない。個とその教義の次元を受け入れ、それのみを語る約束事をしたのが近代思想である。その約束事をすんなり受け入れることができる者は、思索においては一貫して教義を語り、言葉にならない世界については、その豊かさを享受する。しかし、この種の思索の問題点は、上述したような、擬似問題を消滅させる種類の思索へと成熟しがちであり、それでも土壌にこだわる思索をする者を置いてけぼりにすることである。また、この種の思索は、記号としての言葉を重要視する傾向にあり、言語表現の幅を狭める。無論、この傾向が正当である説得的な理由はある。ある職業の代表者として言葉を発する場合、その言葉は、と非個人的な文体において不特定多数の他者が触れても伝達可能である明晰さを持っていなければならない。

無論、現代人として責任ある言語を語る必要性と、思索者として土壌から考えようとする試みが不必要だという考えは同義ではない。あくまでも思索をしている事実を自覚し、その上で、土壌から考えようとするにはどうすればいいだろうか。単純に言えば、両方行えばいいのである。まさにプラトンの対話篇のように、寓話の断片を集め、その豊かさの中で教義のぶつかり合いを吟味するのである。社会科学者が構築する概念としての「事実」は、解釈の余地を減らすことが目的であるとしたら、始原的思索者が構築するのは、解釈に広がりのある、寓話としての「事実」である。最も豊かであるのは、自然そのもののような凝縮された寓話を構築しつつ、何度立ち戻っても豊かな解釈や教義が生まれる様相を実演することである。端的に言えば、寓話性の「1」が概念の「無限」に近づくような素材を構築し、演奏し続けるわけである。無論、書くことは、必然的に言葉を置く営みであるため、捉えるべき土壌は、語った途端に覆い隠される。寓話と概念の無限の接近を求める思索は、異なる状況に生きる者によって再構築され続けなければ、思索は創作になってしまうのである。結局、映画や小説などの創作が豊かであるのは、それらが寓話性を保つからである。人生を考えるために『レ・ミゼラブル』を題材としたり、管理社会を考えるために『すばらしき新世界』を題材としたりするのは、架空の出来事は、人為的でコンパクトに寓話性を結晶化できるからである。しかし、始原的思索者はあくまでも現実(いわゆる実在)を求める。その目的は、この世界に参加する意味や意義を考察することであって、創作活動ではないのである。

寓話性と概念の接近は、言葉の使い方の方向性が真逆である。そのため、それを一人の思索者が行うのは大変難しい。寓話性に囚われる者は曖昧さに溺れる傾向にあり、概念に囚われる者は明晰性の牢獄に甘んじる傾向にある。その点、思索において両者を行き来すること自体が、常に立ち戻るべき問いになる。無論、思索が片方に振り切れても始原的思索が成熟する事例はある。まず、考えられるのは、多様な他者が結束して応答した寓話的な出来事を1人の思索者がまとめるときである。あと、自分自身がこの世界に参加する事実に寓話性を持たせるときもそれは生じる。それは、自分をヒーローに仕立て上げろ、ということではなく、単に目の前の状況を直視し、一生懸命生きろ、ということである。伝記が面白いのは、特定個人の状況とその応答が鮮明に描かれるからだが、その種の応答を、自分自身が行うという選択肢である。同じ状況に直面することなどあり得ないので、その場その場での具体的応答の蓄積が、寓話における概念の接近になりうるわけである。