1月9日2019年2

思索の伝統になるのは、その種のテクストを生み出す人々の態度なのだと再確認した。フェミニズム哲学はよく「それは哲学ではない」と言われるそうである。なぜなら、哲学研究に一般的な普遍の話をせず、個人的な経験や具体的な事象を扱うからであり、学際的に思索をする傾向があるからである。この傾向性を持つのは、「人間」などの普遍から始めると、女性特有の経験や問いが生まれてこないことが多いからだと想像する。そこで、フェミニズム哲学は、徹底的に個別具体から始め、普遍や既存の様態に対する嫌悪、疎外感、疑問点を自らの思索の問いとして取り入れる。一般に、そうした感情に直面すると、思索とは関係がないと無視したり、徹底的に拒否したりする。しかし、大まかに言えば、フェミニズム哲学の系譜は、それらを思索の端緒とすることで、そこから開ける地平を期待したそうである。「女性」や「フェミニズム哲学」とは何かと言い切ることができないのは、「女性が虐げられるのは問題がある」という共通の問題意識のもとで結束してはいるが、矛盾を抱えながら思索をした成果において根本的に相容れない人々が生まれるからである。もう一つの明確な特徴は、フェミニズム哲学という思索の様式は、20世紀に広まった社会運動の一端を担っているということである。そのため、帰結に関わりなく真理を追求する思索、という哲学のイメージそのものと緊張関係を保っている。

当然のことだが、B.M.先生は、アメリカのフェミニズム哲学の歴史をよく知っており、「女性」という捉えきることのできないカテゴリに関し、その歴史と、その社会運動の動向についてよく知っていた。また、哲学業界における女性の地位についても言及しており、いわば、その歴史的な運動の中の自分自身の位置もよく知っているようだった。

それに対し、P.W.先生は、他者を締め出すような言論をしていたように思える。無論、この人は、哲学史を根こそぎ学び尽くしているという凄みがあるのだが、果たして自分自身はこの人のようになりたいだろうか、と疑問に思ってしまう。学べば学ぶほど、大陸哲学の思索の様式に首を傾げるようになる。